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関根金次郎(せきねきんじろう、1868年(明治元年)-1946年(昭和21年))は将棋棋士。13世名人。近代将棋の父とも言われる。
生涯
11歳で11世名人伊藤宗印に弟子入りする。しかし、その頃は、将棋界は低迷していて、将棋指しは半端者と見られていた。その後、20歳で三段。しかし、1893年(明治26年)に師匠の11世名人伊藤宗印が死去すると、12世名人を政界などの後押しを受け、小野五平が継ぐことになった。それに、怒った関根は、五平に果たし状を叩き込むが、政界などが仲介に入り決着。
また、ライバルとも言われる坂田三吉との対局は有名で、1894年(明治27年)の初手合わせは三度戦って関根の2勝1敗。最後の対局、(1918年、大正7年)まで、生涯に32局戦い、関根の15勝16敗一分。53歳(1921年、大正10年)で、13世名人の位に就く。
その後、江戸時代から連綿と続いた終生名人制を改革。自ら13世名人を退くとともに、実力で名人を決める実力名人制を開始。これが、﹁近代将棋の父﹂と呼ばれる所以である。
関根名人書
また、関根の書体の銘駒もあるが、これは、1936年(昭和11年)に将棋大成会(日本将棋連盟の前身)が創立された。その記念に関根が、駒師、龍山に駒を依頼し、関根に代わって龍山が字を書き﹁関根名人書﹂としたのが真相であると、後に遺族が語っている。