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ラクシュミー・バーイ (会話 | 投稿記録) |
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'''閻 圃'''(えん ほ、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]時代末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]にかけての政治家。[[益州]]巴西郡安漢県([[四川省]][[南充市]])の人。子は閻璞。孫は閻纉。 |
'''閻 圃'''︵えん ほ、生没年不詳︶は、[[中国]][[後漢]]時代末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]にかけての政治家。[[益州]]巴西郡安漢県︵[[四川省]][[南充市]]︶の人。子は閻璞。孫は{{仮リンク|閻纉|label=閻纉|zh|阎缵}}。
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== 正史の事績 == |
== 正史の事績 == |
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[[張魯]]に仕えた。[[漢中]]の住民が張魯に玉印を献上したとき、張魯が漢寧王を名乗ろうとしたが、閻圃は﹁今も漢中で独立した勢力を維持し、財力も豊かで人民もよく我々の支配のもと、無事に生活しております。あえて王になることもありません﹂と諫めたという。[[建安 (漢)|建安]]20年︵[[215年]]︶、[[曹操]]が漢中に攻め込み、陽安関を陥落させた。張魯が慌てて降伏しようとしたが、これに対し閻圃は抗戦を主張した。ただしそれは勝算があってのことではなく、一度も戦わずに降伏すれば、曹操から軽く見られるという判断からであった。張魯はこれを受け入れ巴中へ逃れ、その後、[[漢中市|南鄭]]へ入城した曹操が使者を派遣してくると、閻圃と共に降伏した。
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[[張魯]]に仕えた。[[漢中]]の住民が張魯に玉印を献上したとき、張魯が漢寧王を名乗ろうとしたが、閻圃は﹁今も漢中で独立した勢力を維持し、財力も豊かで人民もよく我々の支配のもと、無事に生活しております。あえて王になることもありません﹂と諫めたという。[[建安 (漢)|建安]]20年︵[[215年]]︶、[[曹操]]が漢中に攻め込み、陽安関を陥落させた。張魯が慌てて降伏しようとしたが、これに対し閻圃は抗戦を主張した。ただしそれは勝算があってのことではなく、一度も戦わずに降伏すれば、曹操から軽く見られるという判断からであった。張魯はこれを受け入れ巴中へ逃れ、その後、[[漢中市|南鄭]]へ入城した曹操が使者を派遣してくると、閻圃と共に降伏した。
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これらの閻圃の実績は曹操から高く評価され、曹操にとって陪臣であったにもかかわらず、閻圃は張魯と共に平楽郷侯に封じられた。同時に[[馬超]]の妾であった董氏も与えられている︵董氏の子であった馬秋は、張魯に殺害された︶。[[黄初]]年間に閻圃は爵位・領地を加増され、朝議の席で礼遇される身分になったという。その後10年余りで死去したとあるため、没年は230年代前半と推測される。
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これらの閻圃の実績は曹操から高く評価され、曹操にとって陪臣であったにもかかわらず、閻圃は張魯と共に平楽郷侯に封じられた。同時に[[馬超]]の妾であった董氏も与えられている︵董氏の子であった{{仮リンク|馬秋|label=馬秋|zh|馬秋}}は、張魯に殺害された︶。[[黄初]]年間に閻圃は爵位・領地を加増され、朝議の席で礼遇される身分になったという。その後10年余りで死去したとあるため、没年は230年代前半と推測される。
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『新唐書』宰相世系表によれば閻圃の一族は後の王朝でも活躍しており、[[唐代]]には[[宰相]]であり画家でもある[[閻立本]]を輩出している。 |
『新唐書』宰相世系表によれば閻圃の一族は後の王朝でも活躍しており、[[唐代]]には[[宰相]]であり画家でもある[[閻立本]]を輩出している。 |
2017年9月17日 (日) 18:45時点における版
閻圃 | |
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魏 平楽郷侯・建節将軍 | |
出生 |
生年不詳 益州巴西郡安漢県(四川省南充市) |
拼音 | Yán Pǔ |
字 | 不詳 |
主君 | 張魯→曹操→曹丕→曹叡 |
閻 圃︵えん ほ、生没年不詳︶は、中国後漢時代末期から三国時代の魏にかけての政治家。益州巴西郡安漢県︵四川省南充市︶の人。子は閻璞。孫は閻纉。