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五代十国の後晋についての歴史書については「旧五代史」をご覧ください。 |
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晉書
成立までの経緯と構成[編集]
玄武門の変により兄で皇太子の李建成を排除して帝位を簒奪した太宗李世民は、房玄齢を総監として未編纂の史書を作ることを命じ、﹃北斉書﹄・﹃梁書﹄・﹃陳書﹄・﹃隋書﹄・﹃周書﹄と﹃晋書﹄が編纂された。太宗は代表作である﹁蘭亭序﹂を陪葬することを命じるほど王羲之に傾倒しており、﹃晋書﹄﹁王羲之伝﹂は自ら執筆している。既存の正史である﹃史記﹄﹃漢書﹄﹃三国志﹄などはいずれも個人が編纂したものを後に正史と定めたものであったが、太宗の欽定史書として﹃晋書﹄が編纂されて以降は史書編纂は国家事業となり、滅亡した王朝の史書を編纂することが正統王朝としての義務となった。
﹃晋書﹄成立以前にも、数多くの史家によって晋の歴史書が作られており、それらのうち代表的な18種類の書物が﹁十八家晋史﹂と呼ばれていた。﹃晋書﹄は、﹁十八家晋史﹂の内の一つである、臧栄緒の﹃晋書﹄をはじめとした晋の約数十種類の歴史書や、崔鴻の﹃十六国春秋﹄などの五胡十六国の歴史について述べられた書物などを参考にして編纂された。
本紀に記載されるのは晋の実質上の始祖である司馬懿から東晋最後の恭帝司馬徳文までであるが、載記では東晋滅亡の年より後に死去した赫連勃勃なども入っている。
西晋では、武帝・恵帝の時代に、将来の﹃晋書﹄編纂に当たって、どの時代から扱うかが議論された。荀勗は司馬懿が魏の実権を握った正始年間を、王瓚は司馬師が曹芳を廃立した嘉平年間を始期にすべきと主張したが、結論は出なかった。のちに賈謐が、武帝が皇帝に即位した泰始年間を始期にするよう主張した。正始期を支持する荀畯・荀藩・華混、嘉平期を支持する荀熙・刁協はなおも自説を主張したが、王戎・張華・王衍・楽広らの支持を得た賈謐の主張が通った[1]。
正史﹃晋書﹄は、王朝の事実上の始祖として本紀を立てた司馬懿・司馬師・司馬昭や、竹林の七賢など一部例外はあるが、基本的に西晋での方針に従い、武帝の即位︵265年︶以前に死去した人物の伝記は立てていない。すなわち、実質的に晋臣として活動した人物であっても、武帝即位以前に死去した人物は原則立伝されなかった。
﹃晋書﹄の志の部分は、晋のみならず後漢や三国時代についても記しており、志をもたない﹃三国志﹄を補う重要な資料となっている。
また、晋だけでなく五胡十六国の歴史を載記という形で載せているのも貴重である。
いっぽう﹃晋書﹄の正確性については、批判的な評価が多い。
﹃史通﹄﹁採撰篇﹂で劉知幾は、﹃晋書﹄が﹃語林﹄﹃世説新語﹄﹃幽明録﹄﹃捜神記﹄といった書物に記載された怪しげな話を採用していることを指摘した。﹁分量さえ多ければいい、資料収集が広ければいいという態度だ。小人は喜ばせられるだろうが、君子のあざ笑うところである。﹂と手厳しく非難している。また、﹃旧唐書﹄の著者の劉昫は、﹁房玄齢伝[2]﹂の評語で、﹁以臧栄緒晋書為主、参考諸家、甚為詳洽。然史官多是文詠之士、好採詭謬砕事、以広異聞、又所評論、競為綺艶、不求篤実、由是頗為学者所譏﹂と、筆を極めて酷評している。つまり、﹁﹃晋書﹄は諸書を参考に詳しく書かれている。ところが、編纂に当たった史官は文士・歌詠みが多く、デマや誤報、くだらないゴシップを喜んで書いているような程度の低い連中で、広く異聞を集め、所々で評論家ぶって美文を書こうとしているが、真実を追求していないので学者はひどくバカにしている﹂というのである。すなわち、正史であるにもかかわらず後世からあたかもイエロージャーナリズムのような評価しか受けなかった史書、それが﹃晋書﹄であった。この評価は後世も概ね踏襲されており、清朝の考証学者である趙翼なども、﹃晋書﹄はデマや誤報、くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている[3]。
また、現代日本において﹃晋書﹄の部分日本語訳を行った越智重明は﹁晋書には多くの誤りがあり、敦煌文書に含まれる干宝の﹃晋紀﹄や、﹃世説新語﹄などで校正しなければならない﹂﹁占田制・課田制のような重大な歴史学の問題でも、晋書には誤りがあるので鵜呑みにしてはいけない﹂[4]と批判している。宮川寅雄も﹁おおかたは逸話や伝承のたぐいで埋められており、枝葉なことがらを洗いおとしてゆくと、家譜や歴任の官職の大まかな推移になってしまう﹂[5]と述べている。
既存の史書と比較すると、それまで個人が執筆・編纂していたものに対して、複数の編者が存在することで前後矛盾する内容となっている箇所もあり、内藤湖南から批判された。例示すれば﹁李重伝﹂の中に﹁見百官志﹂︵百官志に見える︶と記述されるにもかかわらず、﹃晋書﹄の中には﹁百官志﹂が存在しないこと、などである。
一方で﹃冊府元亀﹄の評では、﹁前代の記録を広く考証し、残存する記録を広く探し、雑草を刈り取るように肝心な部分を抜き出している﹂と、﹃晋書﹄の資料収集を高く評価しているが、そのような好意的評価は非常に少ない。
以上﹃晋書﹄は史書としての評価は高くはないが、﹃三国志﹄が﹁地理志﹂を欠くこともあって、周代以来三国時代に到る地理志の研究家は、﹃晋書﹄﹁地理志﹂を参考にしている。[要出典]また﹃三国志﹄には司馬懿の伝記がなく、﹃晋書﹄には司馬懿の伝記﹁宣帝紀﹂があるので参考にされることも多い。ただし﹁宣帝紀﹂には司馬懿の首が180度回転したといった事実とは考えられない記述が多く、清朝考証学では論難されている。
- ^ 『晋書』「賈謐伝」
- ^ 劉昫 (中国語), 舊唐書/卷66, ウィキソースより閲覧。
- ^ 趙翼・長澤規矩也解題『廿二史箚記』汲古書院・和刻本正史(別巻8)1973.12
- ^ 越智『晋書』中国古典新書、明徳出版社
- ^ 宮川寅雄 著「王羲之と顧覬之」、駒田信二 編『人物中国の歴史〈6〉長安の春秋』〈集英社文庫〉1987年。
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