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'''隆光'''(りゅうこう、[[慶安]]2年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]([[1649年]][[3月20日]])- [[享保]]9年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]([[1724年]][[7月26日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[新義真言宗]]の[[僧]]。出自は[[大和国]]の旧家河辺氏。初名は'''河辺隆長'''、字(あざな)は栄春。

'''隆光'''(りゅうこう、[[慶安]]2年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]([[1649年]][[3月20日]])- [[享保]]9年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]([[1724年]][[7月26日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[新義真言宗]]の[[僧]]。出自は[[大和国]]の旧家河辺氏。初名は'''河辺隆長'''、字(あざな)は栄春。



[[1658年]](万治元年)仏門に入り、[[長谷寺]]・[[唐招提寺]]で修学した後、[[奈良]]・[[醍醐寺|醍醐]]で密教を修め、[[儒学]]・[[老荘]]をも学んだ。[[1686年]](貞享3年)5代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]の命により将軍家の祈祷寺である[[筑波山]][[知足院]]の住職となったの機に、急速に綱吉の帰依を得た。[[1688年]](元禄元年)には知足院を神田橋外に移して[[護持院]]と改称してその開山となった。[[1695年]](元禄8年)には新義真言宗の僧では初めて[[大僧正]]となっている。宝永4年2月25日隠居し、駿河台成満院へ転住する<ref>『真言宗年表』国書刊行会 p.618</ref>。

[[1658年]](万治元年)仏門に入り、[[長谷寺]]・[[唐招提寺]]で修学した後、[[奈良]]・[[醍醐寺|醍醐]]で密教を修め、[[儒学]]・[[老荘]]をも学んだ。[[1686年]](貞享3年)5代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]の命により将軍家の祈祷寺である[[筑波山]][[筑波山大御堂|知足院]]の住職となったの機に、急速に綱吉の帰依を得た。[[1688年]](元禄元年)には知足院を神田橋外に移して[[護持院]]と改称してその開山となった。[[1695年]](元禄8年)には新義真言宗の僧では初めて[[大僧正]]となっている。宝永4年2月25日隠居し、駿河台成満院へ転住する<ref>『真言宗年表』国書刊行会 p.618</ref>。



しかし、綱吉の死去と共に失脚。[[宝永]]6年([[1709年]])には[[江戸城]]への登城を禁じられ、筑波山知足院への復帰願いも認められず{{要出典|date=2012年1月}}、失意の内に大和に帰郷し没したという。墓所は[[大阪府]][[太子町 (大阪府)|太子町]]と[[奈良市]]の佐紀幼稚園裏の2カ所にある。

しかし、綱吉の死去と共に失脚。[[宝永]]6年([[1709年]])には[[江戸城]]への登城を禁じられ、筑波山知足院への復帰願いも認められず{{要出典|date=2012年1月}}、失意の内に大和に帰郷し没したという。墓所は[[大阪府]][[太子町 (大阪府)|太子町]]と[[奈良市]]の佐紀幼稚園裏の2カ所にある。

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[[Category:日本の僧]]

[[Category:真言宗の僧]]

[[Category:真言宗豊山派]]

[[Category:江戸時代の人物]]

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[[Category:大和国の人物]]

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脚注

  1. ^ 『真言宗年表』国書刊行会 p.618
  2. ^ 『密教大辞典』(法蔵館)・『真言宗年表』(国書刊行会)によると貞享3年(1686年)10月3日に江戸城黒書院で安鎮法を修している。つまり生類憐れみの令以前より江戸城に出入りしていた。