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[[兵庫県]][[加古川市]]出身。[[東京大学|東京帝国大学]]文学部哲学科卒。1906年9月独文科に入学するが、同年10月哲学科に転科。卒業後、大学院に進学。友人、[[藤村操]]が、1903ネ科5月日光[[華厳の滝]]に投身自殺した際に、自殺から1年後﹁一高校友会雑誌﹂に﹁自殺論﹂を寄稿し、今日の人間にとって、国是国策の君でも家でもなく、自我こそが問題なのだと論じて話題になる。大学では、[[ラファエル・フォン・ケーベル]]に師事、のち[[夏目漱石]]の門下となり、宮崎八百吉、[[綱島梁川]]、[[西田天香]]のような宗教家たちとも交流した。
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* 同志社大学人文科学研究所編『「新人」「新女界」の研究―20世紀初頭キリスト教ジャーナリズム 』人文書院 1999年 - 魚住の求道的な生涯について詳しい |
* 同志社大学人文科学研究所編『「新人」「新女界」の研究―20世紀初頭キリスト教ジャーナリズム 』人文書院 1999年 - 魚住の求道的な生涯について詳しい |
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2011年11月5日 (土) 02:57時点における版
魚住 折蘆︵うおずみ せつろ、1883年1月27日 - 1910年12月1日︶は、明治時代の評論家。本名は彰雄︵あきお︶。
兵庫県加古川市出身。東京帝国大学文学部哲学科卒。1906年9月独文科に入学するが、同年10月哲学科に転科。卒業後、大学院に進学。友人、藤村操が、1903ネ科5月日光華厳の滝に投身自殺した際に、自殺から1年後﹁一高校友会雑誌﹂に﹁自殺論﹂を寄稿し、今日の人間にとって、国是国策の君でも家でもなく、自我こそが問題なのだと論じて話題になる。大学では、ラファエル・フォン・ケーベルに師事、のち夏目漱石の門下となり、宮崎八百吉、綱島梁川、西田天香のような宗教家たちとも交流した。
著作
- 「自然主義は窮せしや」1910年
- 「自己主張の思想としての自然主義」1910年
- 安倍能成編『折蘆遺稿』岩波書店 1914年
- 『魚住折廬書簡集』岩波書店 1977年
- 『現代日本文学大系40巻 魚住折蘆,安倍能成,阿部次郎,和辻哲郎,生田長江,倉田百三,長谷川如是閑』筑摩書房 1973年
参考文献
- 同志社大学人文科学研究所編『「新人」「新女界」の研究―20世紀初頭キリスト教ジャーナリズム 』人文書院 1999年 - 魚住の求道的な生涯について詳しい