アルフレッド・ライオン

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Gotenstrasse 7 ベルリン Schöneberg。生誕地。

Alfred Lion1908421 - 198722

[]


1908[ 1]1928

1937貿1938[ 2]19391947193916212

1940西47[3]

[4][5]52[6][7][8]

1941271943[9]

1942[10]



194078331/3LP[11]

19531954[12]

1963LP251964[13][14][15]

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1979112

197019811[18][ 3]

1984EMIEMI

1985222[20]

11986[21][ 4]

198722[23]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ライオンは1925年サム・ウディング率いるチョコレート・ダンディーズのドイツでの公演を聴いた。「アメリカの黒人が演奏する音楽を初めて聴いた。『まったくの初体験だったが、たちまちとりこになった』」[1]
  2. ^ ニューヨークで裕福な家庭に生まれ、ミルトン・ゲイブラーのミュージック・ショップに出入りして育ったジョン・ハモンドが開催した、「『これまで白人のポピュラー・ミュージックの世界から閉め出されていた全国の才能ある黒人アーティスト』を集めて大がかりなコンサートを開くという企画」[2]。1938年12月23日開催。
  3. ^ 「『日本でブルーノートをライセンスしていたキング・レコードから、未発売の録音に関する資料のゼロックス・コピーが送られてきた。アルフレッドがすべてのセッションの詳細をコメント付きで記録した資料だった。それまで苦労して、ようやくLP20枚分ほど発売にこぎつけたところへ、突然、大量の情報が届いたんだ』」[19]
  4. ^ 「一九八六年、アルフレッドとルースは初めて訪れる日本で、再びその功績を称えられた。ブルーノートを記念するマウント・フジ・ジャズ・フェスティヴァルが開催されたのだ。悪天候にもかかわらず、フェスティヴァルは猛烈に盛り上がった。熱狂する日本の聴衆はジャズをよく知っていて、このイベントがいかに特別なものかわかっていた。集まったバンドがソニー・クラークの<クール・ストラッティン>の最初の数小節を演奏し始めると、聴衆のあいだに一斉にどよめきが走り、あっけにとられた奏者たちが音をはずしかけたほどだった」[22]

出典[編集]

  1. ^ クック, p.24
  2. ^ クック, p.22
  3. ^ クック, pp.34-36
  4. ^ クック, p.27
  5. ^ クック, p.40
  6. ^ クック, p.32
  7. ^ クック, pp.31, 33
  8. ^ クック, pp.37, 314
  9. ^ クック, pp.37, 38
  10. ^ クック, p.38
  11. ^ クック, pp.72-78
  12. ^ クック, p.105
  13. ^ クック, p.314
  14. ^ クック, pp.311-316
  15. ^ クック, p.315
  16. ^ クック, pp.317-328
  17. ^ クック, pp.328-341
  18. ^ クック, pp.345-353
  19. ^ クック, p.352
  20. ^ クック, pp.355-361
  21. ^ クック, pp.367-368, 393-402
  22. ^ クック, pp.367, 368
  23. ^ クック, p.368

参考文献[編集]

  • リチャード・クック 著、前野律 訳『ブルーノート・レコード』行方均(監修)、朝日新聞出版〈朝日文庫〉、2002年12月30日。ISBN 4-02-261394-7 

関連項目[編集]