エミリアーノ・サパタ
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エミリアーノ・サパタ・サラサール Emiliano Zapata Salazar | |
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エミリアーノ・サパタ(1914年) | |
生年 | 1879年8月8日 |
生地 | メキシコ モレロス州アネネクイルコ |
没年 | 1919年4月10日 (39歳没) |
没地 | メキシコ モレロス州チナメカ |
思想 | 無政府主義 |
活動 | メキシコ革命 |
所属 | サパタ派 |
エミリアーノ・サパタ・サラサール︵スペイン語: Emiliano Zapata Salazar, 1879年8月8日 - 1919年4月10日︶は、メキシコの革命家。メキシコ革命の指導者の一人。
メキシコの国民的英雄の一人と見なされており、20世紀の終わり頃にチアパス州で始まった革命運動サパティスタは彼の名にちなむ。1994年から発行されていた10ペソ紙幣に肖像が使用されていた。
降伏したクエルナバカ市に入るサパタ︵中央左の上着の前をはだけた人 物、1911年4月︶
サパタはインディオの血が濃かったものの、厳密に言えば白人との混血であるメスティーソであり純粋なインディオではなかったが、モレロス州のインディオの権利運動に没頭した。あるアシエンダからは土地の再分配を平穏に行うことができたが、村の土地の分配に関する村民と農場主の対立に出会い、農場主が村に放火した例もあった。
サパタは長年村民の権利のために活動し、最初に古い権利書によって議論された土地への村民の要求を確立し、次に頑迷なモレロス州知事に対して行動を起こすようにせき立てた。最後には政府や富裕層農園主達の反応の鈍さに対して武力を利用し始め、簡単な論争の後に土地を占領していった。
当時ディアス政権はフランシスコ・マデロの立候補によって脅かされていた。サパタはマデロと内密に同盟を結んだ。1910年6月にマデロは反乱煽動の罪で逮捕され、10月に恩赦によって保釈、そのままアメリカ合衆国に亡命する。マデロは亡命先のテキサス州で﹁サンルイス・ポトシ計画﹂を発表、一斉蜂起を呼びかけた。サパタは蜂起への参加を討議し、翌年3月にモレロス州の南部解放軍を率いてアヤラを襲撃した。
パンチョ・ビリャとサパタ
暗殺されたサパタ
1911年5月25日にディアスは大統領を辞任、6月にマデロがメキシコ市入りし、8日にサパタと会談した。サパタはインディオへの土地の返還を要求したがマデロはそれに応じず逆にサパタ派の武装解除を要求し、会談は物別れに終わり、サパタは﹁強奪された土地・森林・水利などの財産は、正当な権利を有する村及び人民が直ちに保有するものとする。﹂とする﹁アヤラ綱領﹂を発表してマデロに対する武装闘争を開始する。その後、マデロがビクトリアーノ・ウエルタ将軍の反革命によって殺されると、ウエルタ将軍の政府に対しても武力闘争を継続した︵メキシコ革命︶。
サパタは、ウエルタ政権打倒に立ち上がった他の革命軍とは一線を画し、彼らの連合体である護憲革命軍には加入しなかったが、ウエルタ政権の倒壊前後から護憲革命軍北部師団を率いるフランシスコ・ビリャ︵パンチョ・ビリャ︶と連携して﹁革命の第一統領﹂ベヌスティアーノ・カランサと対立するようになる。ビリャ派の瓦解後は単独でカランサ派に対して武力闘争を行っていたが、1919年4月10日、﹁サパタ派に寝返りたい﹂と称して近づいてきたカランサ派政府軍の将校の計略によって暗殺された。しかしながら、彼のアヤラ綱領の精神は、1917年革命憲法に大幅に取り入れられた。