エラズマス・ダーウィン
エラズマス・ダーウィン︵Erasmus Darwin, 1731年12月12日 – 1802年4月18日︶は、イングランドの医師・詩人・自然哲学者。ロバート・ダーウィンの父でチャールズ・ダーウィンの祖父。
略歴[編集]
ノッティンガム付近のエルストン・ホール生まれ。ケンブリッジ大学とエディンバラ大学で学び、内科医の資格を取得した。一般にチャールズ・ダーウィンが﹁進化﹂論を唱えたとされているが、実際には祖父であるエラズマスが﹁進化(evolution)﹂という概念を生物学に持ち込んでいる。王立協会[1]やフリーメイソン[2]の構成員であり、ルナ協会の中心人物でもあった。 チャールズ自身は﹁ゆるやかな変化﹂などを用いた表現が多く、﹁進化(evolution)﹂という言葉自体を大きく嫌っていたらしい。 有名な﹃種の起源﹄においても、その第5版にまで﹁進化﹂という単語は存在しない。チャールズが祖父を大きく嫌っていたため、と見る向きもあるが、エラズマスの論が実施や実験、経験を軽んじているがため、とチャールズ自身は著している。 ただ、チャールズが当初系統発生にエラズマスの提唱したevolutionの語を当てなかったことに関して、当時のevolutionという語の示す概念は元来個体発生、特に前成説的個体発生概念においてあらかじめ用意された個体の構造が展開生成するプロセスを指していたのを後になって系統発生のプロセスを指す語に援用したものであったことは、もっと注目されてよいだろう。チャールズの﹁種の起原﹂で展開されている議論は系統発生と進歩を区別し、その定められた方向性を否定するものであったからである。つまり、チャールズの﹁進化論﹂の内容と"evolution"の本来の語義は親和性が良いとは言えないのである。﹃植物の園﹄[編集]
ヨーロッパでは18世紀後半にロマン主義が台頭し、自然に対する美意識が大きく変化した時代だった。同時期に、カール・フォン・リンネの分類学を通じて植物学の知識が広く解放された。イギリスでもリンネの分類学は注目されたが、そのポイントとして植物の生殖器官である花の形態によって、多くの植物を分類整理できたことにあった。エラズマスは1791年に、ロマン主義文学とリンネの植物学を融合させた長大な物語詩﹃植物の園﹄(The Botanic Garden)を発表した[3]。 ﹃植物の園﹄は、詩の本文よりも原注のほうがはるかに多いという異様な形式を持つ[3]。本文が精霊や妖精といった神秘論的イメージにあふれる一方で、注釈は詳細かつ科学的厳密性をもち、斬新な仮説の展開も行われている。新しい植物学が当時の人びとに与えたグロテスクな幻想を、科学と神秘を混合させて雄弁に表現した作品である[3]。 ﹃植物の園﹄は発表当時からあまりにもエロティックであると批判を受けた。エラズマスは批判に対して﹁リンネの分類学の本質こそそのエロティシズムにあるのだ﹂として譲らなかった[3]。著作物[編集]
●﹃The Botanic Garden﹄(1791) ●﹃Zoononia﹄(1794) ●﹃Phytologia﹄(1800) ●﹃The Temple of Nature﹄(1803)その他[編集]
●エラズマス・ダーウィンの著書はドイツ語などに翻訳され、ヨーロッパ大陸の自然哲学にも大きな影響を与えた。 ●のちにエラズマスの哲学的、観念的﹁進化論﹂はジャン・アンリ・ファーブルが﹁昆虫記﹂において実地の観察や実験に基づいて痛烈に批判している。 ●吃音症であった[4]。脚注[編集]
(一)^ https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rsnr.1959.0004 (二)^ https://freemasonry.bcy.ca/biography/darwin_e/darwin_e.html (三)^ abcd荒俣 1990, pp. 141–144. (四)^ ﹃西洋博物学者列伝﹄ ロバート・ハクスリー 悠書館 159ページ ひどいどもりで、魅力のある人物とは言えなかったが、客間での人づきあいはうまく、口説きの名人でもあった。参考文献[編集]
●デズモンド・キング=ヘレ, 和田芳久訳﹃エラズマス・ダーウィン﹄工作舎 1993年 ISBN 4-87502-217-4 ●荒俣宏、1990、﹁植物の園﹂、﹃世界の奇書 総解説﹄改訂版第1刷、自由国民社 ISBN 4426624037外部リンク[編集]
- エラズマス・ダーウィンの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- Erasmus Darwinに関連する著作物 - インターネットアーカイブ