クリスティアン・カウツ
クリスティアン・カウツ Christian Kautz | |
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カウツ(1937年モナコグランプリ。右端の人物) | |
基本情報 | |
国籍 | スイス |
生年月日 | 1913年11月23日 |
出身地 |
ベルギー ブリュッセル |
死没日 | 1948年7月4日(34歳没) |
死没地 |
スイス ベルン州ブレムガルテン・バイ・ベルン |
ヨーロッパ・ドライバーズ選手権での経歴 | |
活動時期 | 1937年–1939年 |
所属 | ダイムラー・ベンツ、アウトウニオン |
出走回数 | 8 |
優勝回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
シリーズ最高順位 | 3位 (1937年) |
クリスティアン・カウツ︵Christian Kautz, 1913年11月23日 - 1948年7月4日︶は、スイスのレーシングドライバー。1937年から1939年にかけてグランプリレース︵ヨーロッパ・ドライバーズ選手権︶を戦った。
経歴[編集]
スイスの富豪の銀行家の息子として生まれた[1][W 1]。オックスフォード大学でイギリス文学の学士号を取得[1]。 1936年末に友人のリチャード・シーマンらとともにダイムラー・ベンツのワークスチームであるメルセデスチームのオーディションを受け、シーマンとともに同チームに採用された[1]。 1937年はメルセデスチームから参戦し、モナコグランプリでは、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ、ルドルフ・カラツィオラに次ぐ3位に入り表彰台に立った[W 1]。結果として、この年がキャリアのピークとなる[W 1]。 1938年はアウトウニオンに移籍したものの、選手権レースでは全てリタイアし、1年のみで同チームを去った。1939年には自身のチームを設立し、ドライバーとしてルイジ・キネッティとイブ・マトラを雇って参戦した。 第二次世界大戦中はアメリカ合衆国に移住し、ロッキードで飛行機のテストパイロットとして働いた[W 1]。死亡事故[編集]
終戦後はプライベーターとしてマセラティを駆ってレースに復帰したが、1948年にブレムガルテン・サーキットで開催されたスイスグランプリで事故死した[W 1]。レース戦績[編集]
AIACRヨーロッパ選手権[編集]
年 | 所属チーム | 車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | EDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1937 | ダイムラー・ベンツ AG | メルセデス・ベンツ・W125 | BEL 4 |
GER 6 |
MON 3 |
SUI 6 |
ITA Ret |
3位 | 19 |
1938 | アウトウニオン | アウトウニオン・タイプD | FRA Ret |
GER | SUI Ret |
ITA Ret |
14位 | 28 | |
1939 | クリスティアン・カウツ | アルファロメオ・308 | BEL | FRA DNS |
GER | SUI | – (–) |
– (–) |
●太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。
●1939年のヨーロッパ・ドライバーズ選手権は8月に開催されたスイスGPを最後に中止されたため、統括団体のAIACRは正式なランキングを発表していない。前年と同じルールでポイント換算した場合の順位とポイントを( )内に示した。
エピソード[編集]
●カウツの父親はドイツ銀行の理事を務めており、同行の理事でダイムラー・ベンツの監査役会の重鎮でもあるエミル・ゲオルク・フォン・シュタウスとは知り合いだった[1][注釈 1]。1936年末にメルセデスチームがニュルブルクリンクで行ったオーディションは、アルフレート・ノイバウアーが招待した若手ドライバーにより行われたものだったが、シュタウスの口利きにより、ノイバウアーは渋々カウツも参加者に加えた[1]。ノイバウアーはカウツに期待していなかったが、カウツは意外な速さを見せてノイバウアーを驚かせ、同チームに採用された[1]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- 出版物
- ^ a b c d e f MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「14 ナチズムの横暴」 pp.147–162
- ^ シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「10 ダイムラーとベンツの合併」pp.65–67
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