シャルル・ラムルー
シャルル・ラムルー︵Charles Lamoureux、1834年9月28日︵ボルドー︶ - 1899年12月21日︵パリ︶︶は、フランスの指揮者、ヴァイオリン奏者。コンセール・ラムルー管弦楽団を主宰した。ワーグナーの音楽をフランスに紹介した。
エマニュエル・シャブリエの﹃スペイン﹄を初演するラムルー。︵シャ ルル・レアンドル画、1890年頃︶
かたわら、1850年、10区のジムナーズ劇場︵現在のジムナーズ・マリー・ベル劇場︵Théâtre du Gymnase Marie Bell︶︶のヴァイオリン奏者となり、オペラ座へ、次いでパリ音楽院管弦楽団へ移った。
1858年、エドゥアール・コロンヌらと弦楽四重奏団を作った。1860年に室内楽協会︵Séances Populaires de Musique de Chambre︶に発展し、1872年、そのメンバーから新たな弦楽四重奏団を結成した。1872年から1877年まで、パリ音楽院管弦楽団の副指揮者も務めた。
イギリス、ドイツに旅した見聞から、オラトリオの演奏をパリ音楽院管弦楽団に提案して入れられず、1873年、﹃オラトリオ演奏会﹄︵Société Française de l'Harmonie Sacrée︶の設立を主導し、ヘンデルの﹃メサイア﹄のパリ初演をした。続いてJ.S.バッハの﹃マタイ受難曲﹄、ヘンデルの﹃ユダス・マカベウス﹄、グノーの﹃ガリア﹄、マスネの﹃エーヴ﹄などを演奏した。
頼っていた妻の財も乏しくなり、1876年、﹃オラトリオ演奏会﹄を解散してオペラ=コミック座の指揮者になったものの、半年足らずで総支配人と喧嘩別れした。つぎのオペラ座︵1877年 - 1879年︶でも、それを繰り返した。
1881年、10区にあったシャトー・ド・オー劇場︵Théâtre du Château d'Eau︶から、週毎のコンサートを提案され、﹃新コンサート協会﹄︵la Société des Nouveau Concerts︶を組織して、10月23日、その第1回を開いた。以降、内外の新しい音楽作品の紹介に努めた。
ワーグナーの作品をパリに広めることに意欲的で、コンサートで﹃トリスタンとイゾルデ﹄や﹃ローエングリン﹄の全幕の演奏をした。さらに、バイロイトに行ってワーグナーから﹃ローエングリン﹄のオペラ上演の了承を取りつけた。
しかし1871年、普仏戦争に敗れて以後、フランスには反プロイセン感情が残り、ワーグナーは没後になお嫌われていた。ラムルーが1887年5月3日、﹃ローエングリン﹄を9区のエデン座︵Éden-Théâtre︵現在のアテネ=ルイ=ジューヴェ座︵Théâtre de l'Athénée-Louis-Jouvet︶︶にかけたときは、狂信的愛国者たちの街頭デモが上演反対で騒ぎ、公演は1回で打ち切られた。それにもめげずラムルーは、1891年9月16日、今度はオペラ座でタクトをとった。また騒がれ、警官隊が出動するなかで、天井桟敷から紙つぶてが投げられるなかで上演されたが、結局は受け入れられてロングランとなった。
1893年、ロシアを巡演した。ロンドンには毎年のように訪れて、迎えられた。
1897年、常任を退き、女婿のカミーユ・シュヴィヤールに譲った。協会は、コンセール・ラムルー協会︵l'Association des Concerts Lamoureux︶と改名した。同時期にレジオンドヌール勲章を受勲している。
1899年12月、﹃トリスタンとイゾルデ﹄を1度振り、病を得て数日後の12月21日に没。パリ16区に、シャルル・ラムルー小路︵rue Charles Lamoureux︶がある。