ジェネラル・シャーマン号事件
ジェネラル・シャーマン号事件 General Sherman incident | |
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戦争:ジェネラル・シャーマン号による交易要求[1]。 | |
年月日:1866年8月16日 | |
場所:朝鮮 | |
結果:ジェネラル・シャーマン号の全焼、全乗員の死亡[1]。 | |
交戦勢力 | |
李氏朝鮮 (朝鮮軍) | アメリカ合衆国 (ジェネラル・シャーマン号) |
指導者・指揮官 | |
朴珪寿 | |
損害 | |
死傷者 - 不明 | 死者 - 20名 |
ジェネラル・シャーマン号事件︵ジェネラル・シャーマンごうじけん、英語: General Sherman incident︶は、1866年︵李氏朝鮮暦‥高宗3年︶にアメリカ合衆国の帆船[注釈 1]ジェネラル・シャーマン号が李氏朝鮮後期、朝鮮半島・羊角島に来航した際に起きた一連の事件。この事件によりアメリカ政府が朝鮮に艦隊を派遣し、辛未洋擾が勃発した[2]。北朝鮮では﹁金日成の曽祖父・金膺禹が率いた朝鮮人民の初の反米闘争﹂としている[3]。
経過[編集]
1866年7月、アメリカのスクーナー型帆船﹁ジェネラル・シャーマン号﹂が李氏朝鮮との通商を求めて[4]大同江経由で平壌の羊角島に来航した。船の名称は南北戦争の将軍で﹁近代戦の創始者﹂とも言われるウィリアム・シャーマンに由来し、アメリカ商人W.B.プレストンとイギリスのメドーズ商会によって共同運航されていた[5]。当時、東アジア周辺の海域には武装商船が頻繁に出没していた[要出典]。 来航を受け、平壌の地方官は当初この船を難破船として処理しようとし、朝鮮の慣例に則って食糧や薪・水を支給した上で退去を命じる方針であった[6]。ところが、朝鮮側の伝えるところによれば[要出典]朝鮮側使者の李玄益が乗った小舟はシャーマン号側によって転覆させられ[6]、李玄益は捕縛された[6]。さらにシャーマン号は沿岸に集まっていた住民に砲撃を加えて10名あまりを殺害し河を遡行しはじめた[6]。 これに激怒した住民はシャーマン号への攻撃を開始し[6]、数日間の戦闘の末にシャーマン号は座礁した[6]。ここで平壌監司の朴珪寿が指揮を執ってシャーマン号を焼き討ちし、乗組員全員を殺害した[5]。事後[編集]
詳細は「辛未洋擾」を参照
1871年、アメリカはこの事件の謝罪と通商を求め、アジア艦隊に命じて朝鮮を襲撃した[6]。