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興宣大院君

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
興宣大院君
宗親八世
大院君・大院王
摂政
団領姿の興宣大院君
続柄 南延君第四子
字号 漢字:時伯
諺文:시백
発音:シベク
雅号 漢字:海東居士
諺文:해동거사
発音:ヘドンゴサ
諡号 漢字:献懿
諺文:헌의
発音:ホンウィ
出生年 1821年1月24日
出生地 朝鮮国
漢城府
没死年 1898年2月22日
没死地 大韓帝国
漢城府
配偶者 純穆大院妃
子女 完恩君
完興君
高宗
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18641187311186698,000退189879

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リデルがフランス海軍司令官ロゼに丙寅邪獄について報告すると、ロゼは艦隊7隻の兵士800人を率いて江華島を攻撃した。外奎章閣から様々な書物を略奪し、その中には今日のフランスにおける重要所蔵物の外奎章閣図書などもある。これはフランス側が首都包囲作戦を敢行しようとしたが、失敗して撤退する際に行ったものである。この一件は大院君を大いに自信づけ、国防強化を行った。

ジェネラル・シャーマン号事件と辛未洋擾[編集]
辛未洋擾

2寿退退

姿使51200退
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18684沿西[2]

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1865

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対立期[編集]

第二次執政期[編集]

幽閉中の大院君(1883年)
袁世凱

1882殿

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使輿[3]188212188335



明日ここをから出発すれば二日後には天津に到着する。この書は隠密しておき伝便を送るので、中身を見てほしい。[4] 1884年旧暦7月15日、船の中で密かに書いた手紙


今は何も出来ずに日々を過ごしています。ただ情けなくて仕方ありません。自分の寿命も短くなっております。長男が安らかに過ごしていることを願っています。[4] 1884年旧暦10月12日、保留中に書いた手紙

大院君の救援の手紙を何度も受けた完興君は1884年6月から船便で往来する。1885年、閔氏政権が親露・親日などの傾向を見せて清を牽制しようとすると、ロシアを牽制しようとする清政府と袁世凱などの政治的な計算から、大院君は4年ぶりに帰国することになった。大院君に戻られては困る閔妃は清政府に何度も密書を送り、安東金氏出身の金明圭は天津に赴いて帰国反対を上奏したが、1885年初め、袁世凱は大院君の帰国を手配し、8月に大院君は仁川港に到着した。高宗は大院君を迎えに行くが、顔を背け帰った。だが雲峴宮に帰った際、愛妾の死を聞いて大号泣したという。

大院君爆殺計画[編集]

1887年、大院君は袁世凱と密談し、高宗を廃位し完興君を王位に擁立する事を話し合うが、袁世凱は難色を示したため破談となった。失望した大院君の元に1890年、東学党の主要人物の全琫準が訪ねてきた。大院君は全琫準を保護し、1892年まで門客とした。後に、この縁で東学農民軍と通じる事となる。1892年春、永宣君が統衛使に着任した時期、大院君の居所である雲峴宮および完興君・永宣君の居所にも爆弾が仕掛けられていたことが発覚。この事件で宮中では閔妃が閔升鎬爆殺事件の報復のために大院君一家を殺害を画策したという批判が浴びせられた。以後、大院君は刺客と爆殺を恐れるようになり、雲峴宮には国王の親衛隊の一部が護衛に当たった。

東学党との内通[編集]

全琫準

1893年2月、大院君の元を出ていた全琫準は地方から再び漢城府に上京し、大院君と面談した。そこで決起の意思を伝え、大院君は東学党を影から支援する密約を結んだ。面談後の全琫準は全羅北道古阜郡に下って同志を募り、「東学党は人間は皆平等であることを知らしめ、欲に目がくらむ貪官汚吏どもを成敗し、新しい世へ導く」と宣言して多くの青年を集めた。東学党は忠清北道報恩郡で決起し、漢城府に上京して景福宮の前で弊政改革案と貪官汚吏の罷免を要求する上疏を提出したが、漢城府は軍隊を出動させたため、やむ無く解散した。しかしこの事件は中央官僚と民衆に大きな影響を与えた。さらに上京してくる東学党の集団に、大院君は永宣君を王位に擁立することも提唱させるが、通らなかった。

抗争期[編集]

政権転覆[編集]


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乙未事変[編集]


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1821124 - 

1852725 - 

1862 - 

1863
128 - 

1213 -  211

1865




1866
2 - 



9 - 

71

10 - 10

116 - 1867617

1869
6 - [5]

1871
59 - [6]

6 - 



1873
113 - 





30

1210 - 殿[7]

1874
3 - 



11 - 

1875
8 - 使1

9 - 

11 - 

1876
227 - 

1877 - 51891

1880 - 

1882
1 - 



7 -  [8]使使830

826 -  [9]

1884
12 -   

 

 使

3 

1885
19 -  

415 - 

418 -  退

  

103 - 

1892
6 - [10]

1894
328 - 



531 - 6

7 - 

 

81 - 

1895
330 - 

417 - 

54 - 

76 - 使[11] [12]

710 - [12] 

91 - 使

107 - 

108 - [13]

1010 - [14]

1897 - 

1898
222 - 79

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   1788 - 1836

 

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  1818 - 18981

   1845 - 1912
   1870 - 1917

   1852725 - 1919121

 

 

  1884 - 1978 -- 

  ? - 18815 -- 

 

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登場作品[編集]

映画
テレビドラマ

最近の話題[編集]

  1. 大院君が別荘として使っていた「石坡亭(ソクパジョン)」(ソウル市有形文化財・第26号)が競売で落札された。

脚注[編集]

  1. ^ 朝鮮人物事典148頁
  2. ^ 洋夷侵犯非戦則和主和売国戒我萬年子孫 丙寅作 辛未立
  3. ^ 黄文雄『もしもの近現代史』扶桑社、2013年8月31日、71頁。ISBN 978-4594068738 
  4. ^ a b 京郷新聞1973年10月4日の記事7面
  5. ^ 『高宗実録』 高宗 3年10月20日30日、高宗4年1月16日、『蔚山邑誌』 宦蹟(『嶺南邑誌』)「蔚山府設砲射節目」等
  6. ^ 従来常民からだけ徴収してきた軍布(兵役の代用として布を納める)を両班からも徴収する戸布法
  7. ^ 犯人として大院君の自宅に住む使用人が逮捕される
  8. ^ 承政院日記高宗 19年 9月 22日前後にはその後の上訴等が記載
  9. ^ 花房公使ヨリ条約締結並清人馬建忠大院君ヲ諭シテ支那軍艦ニ搭シ天津ニ発航スルノ電報到達 アジア歴史資料センター Ref.A03023641400
  10. ^ 梅泉野録及び『大院君邸内火薬爆発ノ件』アジア歴史資料センター Ref.A04010006500
  11. ^ ウエベル またはヴェベールと記す。Karl Ivanovich Weber
  12. ^ a b アジア歴史資料センター Ref.B03050001800
  13. ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十日』
  14. ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十二日』

画像[編集]

参考文献および外部リンク等[編集]

先代
金佐根
李氏朝鮮摂政
1863年 12月 - 1874年
1888年
次代
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