ジョン・ジェームズ・ハイデッガー
表示
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/96/Portr%C3%A4t_John_James_Heidegger_%28H%C3%A4ndelhaus_Halle%29.jpg/220px-Portr%C3%A4t_John_James_Heidegger_%28H%C3%A4ndelhaus_Halle%29.jpg)
ジョン・ジェームズ・ハイデッガー(英語: John James Heidegger、ドイツ語: Johann Jakob Heidegger、1666年6月16日 - 1749年7月9日)は、スイス出身でイギリスで活躍したオペラ興業主︵インプレサリオ︶。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Masquerade_ticket.jpg/480px-Masquerade_ticket.jpg)
ウィリアム・ホガースによる仮面舞踏会の風刺画。﹁才能あるH--- -r氏によって発明された﹂と書かれている
ハイデッガーはまたヘイマーケット劇場での仮面舞踏会の開催によっても有名になった。仮面舞踏会はロンドンで大流行したが、下品でふしだらとされて当時のロンドン大司教エドモンド・ギブスンから批判をあびた。しかしハイデッガーは意に介さなかった[9]。ハイデッガーは仮面舞踏会で年に2000ポンド以上の収益をあげていたという[10]。1729年にミドルセックスの大陪審によってハイデッガーは悪徳と不品行を助長するものとされた[2]。ハイデッガーの仮面舞踏会はきわめて悪名高く、ウィリアム・ホガースが何度も風刺画の対象にしているほか、ヘンリー・フィールディングも1728年にレミュエル・ガリヴァーの偽名で﹁仮面舞踏会﹂という風刺詩を書いている[2]。
ハイデッガーは顔が醜いことで有名であり、﹁これまでこの世に存在した中で最も醜い男﹂とまで言われた。顔の醜さにまつわる滑稽な話で社交界に広く名を知られた[11]。
1749年にリッチモンドの自宅で没した[2]。
生涯[編集]
ハイデッガーはスイスのチューリッヒに生まれた。ドイツ語での名前はヨハン・ヤーコプ・ハイデッガーだった。父親は神学者でチューリッヒ大学教授のヨハン・ハインリヒ・ハイデッガー (Johann Heinrich Heidegger) である[1]。 ハイデッガーが渡英した時期は不明だが、1707年にドルリー・レーン劇場で活動していることから、それ以前にロンドンに住んでいた[2]。ハイデッガーはアン女王、ジョージ1世、ジョージ2世の時代を通じて王室に愛された[1]。ジョージ2世はハイデッガーを宮廷祝典局長 (Master of the Revels) に任命した[1]。 ハイデッガーはヘイマーケットの女王劇場の副支配人だったが、1713年に支配人のオーウェン・スウィニー (Owen Swiny) が金庫を持って大陸へ夜逃げすると、かわって自分が支配人になった[3]。1713年から1738年までヘイマーケット劇場の支配人をつとめた[1]、また1720年に新たに結成されたオペラ興業会社の﹁王室音楽アカデミー﹂の設立者のひとりであり、その支配人でもあった[4]。ハイデッガーはアレッサンドロ・スカルラッティ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのオペラを上演し、ヘンデルとは友人になった[1]。 王室音楽アカデミーは1728年に倒産したが、翌年ハイデッガーはヘンデルと組んでアカデミーを復活させた[5]。ヘイマーケット劇場は5年間の契約でアカデミーに貸与されたが、1734年に契約期間が終了すると、ハイデッガーはヘンデルのライバルの貴族オペラに劇場を貸し与え、ヘンデルは新設のコヴェント・ガーデン劇場に移らざるを得なかった[6][7]。1737年に貴族オペラが倒産すると、ハイデッガーは再びヘンデルと手を組んでオペラを上演した[8]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5a/Masquerade_ticket.jpg/480px-Masquerade_ticket.jpg)