バイロイト侯領
バイロイト侯領︵Fürstentum Bayreuth、1604年まではクルムバッハ侯領 Fürstentum Kulmbach︶は、フランケン帝国クライスに属し、ホーエンツォレルン家の傍流が統治した。本家筋にあたるブランデンブルク選帝侯家︵1701年以降はプロイセン王家︶と緊密な関係を持ちながら、1792年まで独立した領邦を保った。この侯領の統治者の政治的な活動範囲は、もっぱらフランケン帝国クライス内とその周辺地域に留まった。この侯領は、﹁ブランデンブルク=バイロイト辺境伯領︵すなわち、かつてのブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯領︶﹂とも称される。
1604年にブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアンが宮廷をクルムバッハからバイロイトに移した後、この地域をまずは﹁クルムバッハ=バイロイト侯領﹂、次いで単に﹁バイロイト侯領﹂と呼んだのであった。しかし、この侯領の本来の名称は﹁ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯領﹂のままであった。
ブランデンブルク=バイロイト辺境伯の紋章
ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯︵1604年以後はブランデンブルク=バイロイト辺境伯︶
●ヨハン︵在位‥1398年 - 1420年︶ - ニュルンベルク城伯フリードリヒ5世の息子。フリードリヒは1398年自らの領土を息子たちに分配した。
●フリードリヒ︵在位‥1420年 - 1440年︶ - ヨハンの弟。1398年からアンスバッハ辺境伯、1427年までニュルンベルク城伯︵フリードリヒ6世︶、1412年からブランデンブルク選帝侯︵フリードリヒ1世︶。
●ヨハン︵在位‥1440年 - 1457年︶
●アルブレヒト・アヒレス︵在位‥1457年 - 1486年︶ - 1440年からアンスバッハ辺境伯、1471年からブランデンブルク選帝侯。
●ジークムント︵在位‥1486年 - 1495年︶
●フリードリヒ2世︵在位‥1495年 - 1515年︶ - 1486年からアンスバッハ辺境伯
●カジミール︵在位‥1515年 - 1527年︶ - アンスバッハ辺境伯
●ゲオルク︵在位‥1527年 - 1541年︶ - カジミールの弟。アンスバッハ辺境伯。未成年であった甥アルブレヒト・アルキビアデスの後見として、クルムバッハ侯領を事実上支配した。
●アルブレヒト・アルキビアデス︵在位‥1527年/1541年 - 1554年︶ - 1552年に第二次辺境伯戦争を引き起こし、敗れて1554年に国外追放された。以降3年間辺境伯位は空位となった。
●ゲオルク・フリードリヒ︵在位‥1557年 - 1603年︶ - 1556年からアンスバッハ辺境伯、1578年からプロイセン摂政。
●クリスティアン︵在位‥1603年 - 1655年︶ - 治世初めに宮廷をクルムバッハからバイロイトへ移転させた。
●クリスティアン・エルンスト︵在位‥1655年 - 1712年︶
●ゲオルク・ヴィルヘルム︵在位‥1712年 - 1726年︶
●ゲオルク・フリードリヒ・カール︵在位‥1726年 - 1735年︶
●フリードリヒ3世︵在位‥1735年 - 1763年︶
●フリードリヒ・クリスティアン︵在位‥1763年 - 1769年︶
●クリスティアン・フリードリヒ・カール・アレクサンダー︵在位‥1769年 - 1791年︶ - 1757年からブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯。1791年に称号を返上し、アンスバッハ侯領及びバイロイト侯領を終身年金と引き替えにプロイセン王国に売却。愛人で後に妻となるエリーザベト・クラーフェン︵1750年 - 1828年︶とイギリスに移り住み、1806年に亡くなった。
1791年のオーバーラント地方
オーバーラントは、その大部分が現在のバイエルン州オーバーフランケン行政管区に位置していた。オーバーフランケン外の重要な地域には、ノイシュタット・アム・クルム︵現在のオーバープファルツ行政管区に位置する︶とホーエンシュタットの飛び地を含むオーバーアムト・オスターノーエ︵現在のミッテルフランケン行政管区に位置する︶があった。オーバーフランケンにはフィヒテル山地、フランケンヴァルトのかなりの部分、それにムゲンドルフ山地︵現在のフレンキシェ・シュヴァイツ︶の一部が含まれた。
この地域は、山地が広がり、森林の多い地域にあたる。肥沃な土地は少ししかなく、地形上の利点に乏しかった。しかし、広い森の周縁部付近に眠っていた地下資源がオーバーラントに富をもたらした。多くの鉱山がこの山地付近、すなわちフランケンヴァルトからフィヒテル山地南部に開発された。
オーバーラントの行政体制は、18世紀半ばには全部で11の行政区分に分けて管理されていた。
(一)ランデスハウプトマンシャフト・ホーフ: 首邑ホーフ。
(二)アムツハウプトマンシャフト・バイロイト: 首都バイロイト。シュトライトベルクの飛び地を含む。
(三)アムツハウプトマンシャフト・クルムバッハ: 首都クルムバッハ。
(四)アムツハウプトマンシャフト・ヴンジーデル: 6つのアムトから成るため、ゼクスエムターラント︵6つのアムトがある土地︶と呼ばれた。
(一)ホーエンベルク
(二)キルヒェンラミッツ
(三)ゼルプ
(四)ティーエルシュタイン
(五)ヴァイセンシュタット
(六)ヴンジーデル
(五)オーバーアムト・リヒテンベルク︵1778年からランデスハウプトマンシャフト・ホーフに編入︶
(六)オーバーアムト・シャウエンシュタイン︵1747年から1772年までの間のみ存在したオーバーアムト。これ以外の時代にはアムツハウプトマンシャフト・クルムバッハに含まれる︶
(七)オーバーアムト・クロイセン
(八)オーバーアムト・ペグニッツ
(九)オーバーアムト・ノイシュタット・アム・クルム︵1778年以降は、アムツハウプトマンシャフト・バイロイトに編入︶
(十)オーバーアムト・ゲフレース
(11)オーバーアムト・オスターノーエ︵1766年以降はオーバーアムト・ペグニッツに編入︶
4つのオーバーアムトはそれぞれ上記︵ ︶内に記した事情で消滅し、独立領邦としての終焉まで存続していた地方行政区分は7つであった。
1791年のウンターラント地方
ウンターラントはもっぱら現在のバイエルン州ミッテルフランケン行政管区に位置していた。東部に位置するノイゼス・アン・デア・レグニッツの飛び地とその他のいくつかの小地区がわずかにオーバーフランケンに位置する。また、西部のフラウエンタール修道院の所領は、現在のバーデン=ヴュルテンベルク州シュトゥットガルト行政管区に位置していた。
オーバーラントに属する地区に較べ、ウンターラントは比較的実り豊かな土地である。肥沃な土地は集約的な農業を可能にし、住民に安逸な居住地を提供したのである。
ウンターラントの行政は、18世紀中頃には全部で6つの行政区分に分けて管理されていた。
(一)ランデスハウプトマンシャフト・ノイシュタット・アン・デア・アイシュ‥首邑はノイシュタット・アン・デア・アイシュ。
(二)アムツハウプトマンシャフト・エアランゲン‥首邑はエアランゲン。
(三)オーバーアムト・バイアースドルフ
(四)オーバーアムト・エシェナウ
(五)オーバーアムト・ホーエネック
(六)オーバーアムト・ノイホーフ