フィリップ (パリ伯)
フィリップ Philippe | |
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パリ伯 プランス・ロワイヤル | |
全名 | ルイ・フィリップ・アルベール・ドルレアン |
出生 |
1838年8月24日 フランス王国、パリ |
死去 |
1894年9月8日(56歳没) イギリス、ストー・ハウス |
配偶者 | マリー=イザベル・ドルレアン |
子女 | 一覧参照 |
家名 | オルレアン家 |
父親 | オルレアン公フェルディナン・フィリップ |
母親 | ヘレーネ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン |
ルイ・フィリップ・アルベール・ドルレアン︵Louis Philippe Albert d'Orléans, 1838年8月24日 - 1894年9月8日︶は、フランス王ルイ・フィリップの孫。オルレアニスト︵オルレアン派︶らの支持によってフランス王位請求権者﹁フランス王フィリップ7世﹂とされた。
生涯[編集]
パリ市とカペー家の先祖への敬意を込めて、嫡孫フィリップは、王からパリ伯︵comte de Paris︶の称号を授けられた。父はフランス︵7月王政︶国王ルイ・フィリップの長男オルレアン公フェルディナン・フィリップ。 ルイ・フィリップの在位中、1842年に父が早世したため、第1王位継承者︵プランス・ロワイヤル︶となった。しかし1848年の2月革命でルイ・フィリップはイギリスへ追放された。パリ伯フィリップを母エレーヌの摂政のもとに王位に就かせようとする努力もなされたが、実現はせず、フィリップも母や弟シャルトル公ロベールとともに国外へ逃れた。 1871年の普仏戦争でフランス帝国︵第二帝政︶敗戦後、レジティミストが推すアンリ・ダルトワと共に、レジティミストの一部とオルレアン派が推すフィリップにも王政復活の大きなチャンスがあったが、実現しなかった。家族[編集]
ルイ・フィリップ王の末子モンパンシエ公アントワーヌ・ドルレアンの長女で、従妹に当たるマリー・イザベル︵1848年 - 1919年︶と1864年に結婚した。2人の間には4男4女が生まれた。
●アメリー︵1865年 - 1951年︶ - ポルトガル王カルロス1世と結婚。
●ルイ・フィリップ・ロベール︵1871年 - 1926年︶ - オルレアン公、オルレアン家家長。
●エレーヌ︵1871年 - 1951年︶ - アオスタ公エマヌエーレ・フィリベルトと結婚。
●シャルル︵1875年︶
●イザベル︵1878年 - 1961年︶ - 従兄のギーズ公ジャン︵オルレアン家当主を継承︶と結婚。
●ジャック︵1880年 - 1881年︶
●ルイーズ︵1882年 - 1958年︶ - 両シチリア王子カルロ・タンクレーディと結婚。次女マリア・デ・ラス・メルセデスは前スペイン国王フアン・カルロス1世の母。
●フェルディナン︵1884年 - 1924年︶
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