ヘルマンド州
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ヘルマンド州 هلمند | |
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北緯31度35分38秒 東経64度22分18秒 / 北緯31.59389度 東経64.37167度座標: 北緯31度35分38秒 東経64度22分18秒 / 北緯31.59389度 東経64.37167度 | |
国 | アフガニスタン |
州都 | ラシュカルガー |
政府 | |
• 州知事 | タリブ・マウラウィー・サーヒブ |
面積 | |
• 合計 | 58,305.1 km2 |
標高 | 780 m |
人口 (2012)[2] | |
• 合計 | 879,500人 |
• 密度 | 15人/km2 |
等時帯 | UTC+4:30 |
ISO 3166コード | AF-HEL |
主要言語 | パシュトー語 |
座標は[4] |
ヘルマンド州︵ヘルマンドしゅう、Helmand、ダリー語表記で هلمند︶は、アフガニスタン南部の州である。ヘルマンド州の面積は約5万8305平方キロメートル︵34州中1位︶[2]、州の総人口は87万9500人︵34州中11位︶[2]、人口密度は15人/平方キロ︵34州中32位︶[2]。ヘルマンド県[5]と表記されることもある。州都はラシュカルガー。
アフガニスタン南部の河川
地理[編集]
ヘルマンド州は日本の東北地方の9割ほどの面積の州である。ヘルマンド州を南北に縦断するヘルマンド川はアフガニスタン最長の河川であり、ヒンドゥークシュ山脈を流れてきたヘルマンド川はKajaki郡のカジャキ・ダムに蓄えられた後、サンギーン郡へ流れていく。一方、Baghran市の方から流れてくるマサカーラ川[注釈 1]もサンギーン郡に向かい、ヘルマンド川と合流する。ヘルマンド川はそのまま州都ラシュカルガーに向かい、州都の南方でカンダハール州から流れてきたアルガンダーブ川と合流する。ヘルマンド川はそのまま南に流れ、Dashti Margo砂漠とレギスタン砂漠の間を山脈に沿って進みGarmsir市を通過し、Khan Nishin市の手前で西に蛇行し、Dishu市の方に流れて行く[6]。-
Baghran郡
-
Musa Qal'eh郡
-
Nawa郡
-
ケシ畑
歴史[編集]
冷戦時代[編集]
1950年頃のヘルマンド州は南部州︵現在のパクティヤー州︶の一部だったが、1957年頃に分割されてギリスフ州︵Girishk︶になり、1964年頃に改名されて現在の名前になった[7]。その頃の州都は現在の州都の南隣りにあるボスト︵Bost︶だったが、1970年頃に現在の州都であるラシュカルガーに移動した[7]。ボストの名は現在でもボスト要塞跡︵Qala-E-Bost︶やボスト大学、ボスト空港などに残っているようである。 20世紀初頭のヘルマンド州は広大な土地はあるものの乾燥した荒野が広がり、農業には適さない土地だった。しかし州内にはアフガニスタン最大の河川であるヘルマンド川などがあり、川を上手く制御できれば農地化が可能だと思われていた。アフガニスタン政府は第二次世界大戦前は日本やドイツ、大戦後はソビエト連邦やアメリカ合衆国の力を借りてヘルマンド渓谷の開発を行おうとした。当初は乗り気ではなかった両国だったが、冷戦対立の下で1950年代後半から本格的な支援を始めた。開発はテネシー川流域開発公社を模範とし、工事はフーバーダムを建設したモリソン・クヌーセン社が担当し、カジャキ・ダムや水路などを建設して38~50万ヘクタールを開拓し、200万人の遊牧民を定住させる予定だった。アフガニスタン政府はアメリカ合衆国国際開発庁︵USAID︶から7千万ドルを借り受け、政府予算の2割を投じて開発を進めた。開発は1950年代後半から始まり、その後アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まるまで20年以上に渡って続いたが、結果は巨額の投資に見合うものではなかった。ヘルマンド州の土壌は塩分を含んでおり灌漑しても農地には適さず、遊牧民は定住を嫌がった。最終的に開拓できたのは約8~15万ヘクタールに過ぎず、定住したのは5500世帯に留まった[8]。冷戦終了後[編集]
アメリカ同時多発テロ事件以降[編集]
2001年9月、アメリカ同時多発テロ事件が起き、10月にはアメリカ合衆国がアフガニスタンに侵攻し、有志連合や北部同盟と共に戦闘を開始した。12月、ターリバーンはカンダハール州・ヘルマンド州・ザーブル州をナキーブッラーやグル・アーガーなどに譲り渡して姿を消した[11]。しかし2003年になるとターリバーンは反撃を開始し、5月に州知事室の隣で爆弾を爆発させ、国連を活動停止に追い込んだ[12]。第一回大統領選挙後[編集]
2004年10月、ターリバーンの妨害活動が続く中で第一回の大統領選挙が実施され[13]、州内ではハーミド・カルザイ︵約90%︶が最多得票を得た[14]。2005年9月、第一回の下院選挙︵Wolesi Jirga︶と州議会選挙が行われたが、ターリバーンは候補者を殺害して妨害した[15]。同年、アヘン取引に関係していたシェール・ムハンマド・アーホンドザーダ知事がイギリスの圧力により解任された。元知事はターリバーンと組んで政府の検問所を攻撃した[16]。2006年7月、国際治安支援部隊︵ISAF︶がアフガニスタン南部で活動を開始した。ヘルマンド州の担当はイギリス軍︵4700人︶とデンマーク軍とエストニア軍であり[17][18]、Mountain Thrust作戦を実施し、サンギーン郡やナウ・ザード郡などで戦闘を行った。しかし、情報不足や装備不足により苦戦を強いられ、爆撃により民間人の被害が拡大した[16]。同年、ヘルマンド州の麻薬栽培が急増し、麻薬栽培に従事するためにヘルマンド州に来訪した季節労働者は20万人に及んだ[16]。アメリカ合衆国はコロンビアの麻薬カルテル対策として有効だった除草剤の空中散布を行おうとしたが、イギリスやカルザイ大統領の反対により実行できなかった[16]。2007年、戦争は激しさを増し、自爆テロや無差別爆撃によってISAFや民間人に多数の犠牲者が出た[19][20]。州内ではKryptonite作戦やPickaxe-Handle作戦やVolcano作戦やNasrat作戦などが行われ、Musa Qala郡などで戦闘があり、誤爆により30人以上の市民が死亡した。ターリバーンも80人以上が死亡したが、人質交換の為にイタリア人記者を誘拐︵その後解放︶するなどして抵抗した[21]。2008年、Eagle's Summit作戦やNawzadの戦い、Red Dagger作戦が行われた。第二回大統領選挙後[編集]
第三回大統領選挙後[編集]
2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、ヘルマンド州ではアシュラフ・ガニー元財務大臣が最多得票︵約33%︶を得た[27]。6月、州都ラシュカルガー北東部に位置するサンギーン郡にて、政府軍とターリバーンの部隊と政府軍が交戦。同地区は2010年、イギリス軍がターリバーンの攻勢に圧され撤収を余儀なくされた難攻の地であったが、政府軍側が800人以上の戦闘員を投入して制圧した[28]。10月、イギリス軍が任務を終了し、キャンプ・バスティオンをアフガニスタン国軍に引き渡し撤退した[29]。第四回大統領選挙後[編集]
2019年3月、ターリバーンは州都ラシュカルガーのキャンプ・ショラブ︵Camp Shorab︶を攻撃した[30]。2019年9月、第四回の大統領選挙が実施された。同月、アメリカ軍とアフガニスタン軍はムーサ・カラ郡でインド亜大陸のアルカーイダ︵AQIS︶の指導者のアシム・ウマルを殺害した[31]。 2020年9月、アフガニスタン政府とターリバーンの初の和平交渉がカタールで開催された[32]。しかし和平協議中にもかかわらず、ターリバーンは34州中28州で攻撃をしかけた[33]。ヘルマンド州では州都ラシュカルガー周辺の複数の検問所が攻撃され、ターリバーンの手に落ちた。ラシュカルガーとカンダハール間の高速道路601号線の一部もターリバーンが占領した。ターリバーンは変電所を襲撃し州内とカンダハール州の一部が停電した。ナーダリー郡やラシュカルガーのChah Anjir 地区などでも3日間戦闘が続いた。攻撃を首謀したターリバーンの影の副知事は捕虜交換によりアフガニスタン政府から解放されたばかりだった[34]。 2021年2月のPajhwok Afghan Newsの電話調査によると、ターリバーンはナウ・ザード郡、ムーサ・カラ郡、Khansheen郡、Baghran郡、Dishu郡を完全に支配していると言う[35]。3月、アフガニスタン政府の治安部隊とターリバーンの戦闘が34州中20州で続き、ヘルマンド州でも激しい戦闘が行われた[36]。 2021年7月末、ターリバーンは州都ラシュカルガーの攻撃を開始し、8月4日も激しい市街戦が続いた。ターリバーンは市内の大半を掌握して州の行政事務所や警察本部に迫っており、警察本部の矢倉を守るアフガニスタン軍を攻撃している。国連によると両軍の無差別な戦闘の巻き添えで1日100人以上の民間人が死傷した[37]。アフガニスタン政府軍は住民に避難を呼びかける一方でアメリカ軍と共に空爆を行っている[38]。8月7日、アフガニスタン軍の特殊部隊が反攻作戦を展開中だがターリバーンは一歩も引かず州都の行政中心である第一地区で戦闘が続いている[39]。8月7日夜、アメリカ軍のB52が爆撃を行い、第二地区のShaheed Anwar Khan高校の校舎や第七地区の公営診療所が損壊した[40]。8月12日、州都の戦闘は続いており、ターリバーンはアフガニスタン軍が立て籠もる警察本部を自動車爆弾で攻撃した[41]。8月13日、一説によるとターリバーンは警察本部を占領した[42]。行政区分[編集]
- Baghran - Alizai族[43]
- Dishu - Baluch族、Barech族[43]
- Garmsir - ガルムシール、Baluch族、Noorzai族[43]
- Kajaki - Alizai族[43]
- Reg-i-Khan Nishin
- Lashkargah - ラシュカルガー、Barakzai族、タジク人[43]
- Marjah - Marja
- Musa Qala(ムーサ・カラ郡[4]、ムサカラ地区) - ムーサ・カラ、Alizai族、Ishaqzai族[43]
- Nad Ali(ナーダリー郡[4]、ナダリ地区)
- Nahr-i-Saraj(ナリ・サラージ郡[4]、ナリサラジ地区) - ゲレシュク、Barakzai族[43]
- Nawa-I-Barakzayi - Nawa-I-Barakzayi、Barakzai族[43]
- Nawzad(ナウ・ザード郡[4]、ナウザド地区) - ナウザード、 Alizai族、Ishaqzai族[43]
- Sangin(サンギーン郡[4]、サンギン地区) - サンギーン、Alakozai族、Ishaqzai族[43]
- Washir(ワーシェール郡[4]、ワシェル地区) - Noorzai族[43]
経済[編集]
農業[編集]
種類 | 生産量 | 順位 |
---|---|---|
小麦 | 27万4000トン | 7位 |
大麦 | 2万8058トン | 5位 |
とうもろこし | 1万1656トン | 12位 |
綿花 | 1万308トン | 1位 |
グレープフルーツ | 200トン | 17位 |
りんご | 50トン | 21位 |
ザクロ | 40トン | 13位 |
アーモンド | 25トン | 25位 |
桃 | 15トン | 19位 |
ヘルマンド州は農業が盛んで、農業収入が家計収入の約7割︵69%︶を占めている[45]。全国的に見て綿花︵34州中1位︶の生産が盛んで、大麦︵34州中5位︶や小麦︵34州中7位︶がかなり生産されている[44]。また2006年~2008年頃はアフガニスタン最大の麻薬生産地域であり、世界のアヘンの2割を生産しているという説があった[46]。その後ケシ畑は4割ほど減った時期もあったが現在は10万ヘクタールを回復しており、全国の約半数を占める第一位︵2014年︶の座を維持している[47]。
住民[編集]
民族[編集]
ヘルマンド州の住民の大半はパシュトゥーン人であり、隣接するカンダハール州と同じく主にドゥッラーニー部族連合︵バーラクザイ族、ヌールザイ族、アリーコザイ族、イスハークザイ族︶が居る[43]。その他に少数のパシュトーン人系遊牧民のコチが居り、砂漠には少数のバローチ人が居る[45]。言語[編集]
ヘルマンド州の主要言語はパシュトー語︵94%︶であり、その他に少数のダリー語話者やバローチー語話者が居る[45]。識字率は12%である[45]。宗教[編集]
軍事[編集]
●Camp Shorabak - 州都ラシュカルガー。ヘンリー・オブ・ウェールズ王子が配属された元イギリス軍基地[48]であり、現在はアフガニスタン国軍の基地。 ●Camp Dwyer - 元アメリカ海兵隊の基地。Garmsir郡。 ●Camp Leatherneck - アフガニスタン国軍の基地。Washir郡。 ●Forward Operating Base Delhi ●Forward Operating Base Geronimo ●Forward Operating Base Jackson ●PB Jaker脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ google mapで確認
出典[編集]
(一)^ “Afghan Biographies - Baloch, Mohammad Naeem Gen”. Afghanistan Online. 2015年2月24日閲覧。
(二)^ abcde“Area and Administrative and Population”. Islamic Republic of Afghanistan (2013年). 2014年2月3日閲覧。
(三)^ “Topological Information About Places On The Earth”. topocoding.com. 2014年3月9日閲覧。
(四)^ abcdefg“The U.S. Board on Geographic Name”. U.S. Department of the Interior. 2014年2月14日閲覧。
(五)^ “[www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/24/6/pdfs/0625_01_01.pdf プロジェクトサイトの位置]”. 外務省. 2015年12月6日閲覧。
(六)^ AIMS. “AFGHANISTAN HILMAND PROVINCELAND COVERMAP”. カリフォルニア大学デイヴィス校. 2015年3月2日閲覧。
(七)^ ab"Provinces of Afghanistan". Statoids. 2015年2月28日閲覧。
(八)^ 嶋田晴行 (10 2010). “アフガニスタン支援への教訓―冷戦期の援助競争の経験から”. 国際協力論集 (神戸大学) 18 (2) 2015年3月3日閲覧。.
(九)^ ヴィレム・フォーヘルサング﹃アフガニスタンの歴史と文化﹄明石書店、2005年。ISBN 978-4750320700。
(十)^ 高橋 博史 (1995年). “新たな紛争の構図―新勢力﹁タリバーン﹂の台頭 1995年のアフガニスタン”. 日本貿易振興機構(ジェトロ) アジア経済研究所. 2015年3月3日閲覧。
(11)^ 山根 聡 (2001年). “ターリバーン政権の崩壊と暫定政権樹立 2001年のアフガニスタン”. 日本貿易振興機構(ジェトロ) アジア経済研究所. 2015年3月3日閲覧。
(12)^ 山根 聡 (2003年). “中央集権体制確立の動きと実権を巡る駆け引き 2003年のアフガニスタン”. 日本貿易振興機構(ジェトロ) アジア経済研究所. 2015年3月3日閲覧。
(13)^ 山根 聡 (2004年). “憲法発布と大統領選挙による正式政権樹立 2004年のアフガニスタン”. 日本貿易振興機構(ジェトロ) アジア経済研究所. 2015年3月3日閲覧。
(14)^ “Helmand Province”. Independent Election Commission of Afghanistan. 2014年3月10日閲覧。
(15)^ 萬宮 健策 (2005年). “﹁ロードマップ﹂の最終段階――議会選挙実施 2005年のアフガニスタン”. 日本貿易振興機構(ジェトロ) アジア経済研究所. 2015年3月3日閲覧。
(16)^ abcdスティーブ・コール (2019-12-10). シークレットウォーズ︵上︶. 白水社. pp. 311-314、363-380
(17)^ 萬宮 健策 (2006年). “泥沼化する国内情勢 2006年のアフガニスタン”. 日本貿易振興機構(ジェトロ) アジア経済研究所. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月3日閲覧。
(18)^ “RC – South”. ISAF. 2014年3月10日閲覧。
(19)^ “アフガン大統領、NATO・米軍の﹁無差別﹂作戦を非難”. AFP BBNews (2007年6月24日). 2014年2月22日閲覧。
(20)^ “アフガニスタン、2007年は自爆攻撃が多発、タリバン掃討作戦で犠牲者増大”. AFP BBNews (2007年12月18日). 2014年2月22日閲覧。
(21)^ 萬宮 健策 (2007年). “手詰まり状態のカルザイー政権 2007年のアフガニスタン”. 日本貿易振興機構(ジェトロ) アジア経済研究所. 2015年3月3日閲覧。
(22)^ “Helmand Province”. Independent Election Commission of Afghanistan. 2014年2月17日閲覧。
(23)^ “アフガニスタン駐留兵の今年の死者600人に、過去最悪のペース”. AFP BBNews (2010年10月26日). 2014年2月22日閲覧。
(24)^ “2010年の民間人死者、タリバン政権崩壊後最悪に アフガニスタン”. AFP BBNews (2010年3月9日). 2014年2月22日閲覧。
(25)^ “アフガニスタン‥治安情勢”. 外務省. 2014年2月6日閲覧。
(26)^ “アフガンで治安維持権限移譲完了 ISAF撤退へ節目迎える”. MSN産経ニュース (2013年6月18日). 2014年3月10日閲覧。
(27)^ “2014 Elections Results”. Independent Election Commission of Afghanistan. 2015年2月24日閲覧。
(28)^ “﹁南部でタリバンに勝利﹂、アフガン治安部隊が発表”. AFPBBNews (フランス通信社). (2014年6月29日) 2014年6月29日閲覧。
(29)^ “英軍、アフガニスタンでの戦闘任務を終了”. CNN. (2014年10月27日) 2015年3月3日閲覧。
(30)^ “タリバンが軍事基地を攻撃、治安部隊員23人死亡 アフガン南部”. www.afpbb.com. 2021年5月1日閲覧。
(31)^ ﹁アルカイダ重要人物、軍事作戦で死亡か=アフガニスタン当局﹂﹃BBCニュース﹄。2021年4月29日閲覧。
(32)^ “アフガン和平協議が開幕、ポンペオ氏も出席 政府・タリバンの歩み寄りなるか”. www.afpbb.com. 2020年10月11日閲覧。
(33)^ “Violence Expands to 28 Provinces as Talks Face Delay” (英語). TOLOnews. 2021年4月29日閲覧。
(34)^ “Highway Closed, Power Cut Off in Helmand Fighting” (英語). TOLOnews. 2021年4月29日閲覧。
(35)^ “Govt, Taliban make exaggerated claims of territory they control”. Pajhwok Afghan News (2021年2月12日). 2021年2月21日閲覧。
(36)^ “ANDSF Fighting Taliban in 20 Provinces: Afghan Commander” (英語). TOLOnews. 2021年4月29日閲覧。
(37)^ “アフガン州都で民間人140人死傷 国連、﹁無差別﹂攻撃に警鐘”. www.afpbb.com. 2021年8月5日閲覧。
(38)^ “After 7 Days, Heavy Clashes Still Ongoing in Helmand’s Capital” (英語). TOLOnews. 2021年8月4日閲覧。
(39)^ “Helmand, Jawzjan Capitals Face Heavy Fighting in 24 Hours” (英語). TOLOnews. 2021年8月6日閲覧。
(40)^ “20 Civilians Killed in Helmand, Health Clinic, School Destroyed” (英語). TOLOnews. 2021年8月8日閲覧。
(41)^ “Taliban Resumes Attacks on Kandahar City” (英語). TOLOnews. 2021年8月12日閲覧。
(42)^ “Fighting Continues in Kandahar, Uruzgan, Helmand” (英語). TOLOnews. 2021年8月13日閲覧。
(43)^ abcdefghijkl“Helmand Province”. 海軍大学院. 2015年2月26日閲覧。
(44)^ ab“Agriculture Development”. Islamic Republic of Afghanistan (2013年). 2015年3月2日閲覧。
(45)^ abcdMinistry of Rural Rehabilitation and Development (2013年). “Helmand Provincial Profile”. Islamic Republic of Afghanistan. 2015年2月24日閲覧。
(46)^ “Taleban vow to defeat UK troops”. BBC NEWS (2006年6月7日). 2014年2月25日閲覧。
(47)^ “2014 Afghanistan Opium Survey”. 国連薬物犯罪事務所 (2014年). 2015年3月2日閲覧。
(48)^ “タリバンがヘンリー王子殺害を予告、アフガニスタン”. AFPBB News (2012年9月10日). 2015年3月2日閲覧。