マイケル・ウィリアム・バルフ
マイケル・ウィリアム・バルフ Michael William Balfe | |
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基本情報 | |
生誕 |
1808年5月15日 イギリス アイルランド、ダブリン |
死没 |
1870年10月20日(62歳没) イギリス イングランド、ハートフォードシャー |
ジャンル | クラシック |
職業 | 作曲家、バリトン歌手、ヴァイオリニスト |
マイケル・ウィリアム・バルフ︵Michael William Balfe, 1808年5月15日 - 1870年10月20日︶は、アイルランドの作曲家。オペラ﹁ボヘミアの少女﹂で最も知られる。
ヴァイオリニストとしての短いキャリアの後、オペラ歌唱の道に進み、同時に作曲を開始した。40年以上に及ぶキャリアの中で、38のオペラと約250曲の歌曲、その他の作品を作曲した。また、指揮者としても有名で、ハー・マジェスティーズ・シアターでの7年間のイタリア・オペラの指揮をはじめ、他の指揮者職にも就いていた。
バルフ 1860年
バルフは1835年5月、妻と幼い娘を連れてロンドンに戻った。数ヵ月後に彼に最初の成功が訪れる。1835年10月29日のドルリー・レーンでの﹁The Siege of Rochelle﹂の初演である。この成功に勇気付けられ、彼は1836年に﹁The Maid of Artois﹂を発表し、さらに英語のオペラの発表が続いた。
1838年7月、バルフはS.マンフレード・マッジオーネ︵Manfredo Maggione︶の台本によって、ハー・マジェスティーズ・シアター用にシェイクスピアの﹁ウィンザーの陽気な女房たち﹂に基づく新作オペラ﹁ファルスタッフ Falstaff﹂を作曲した。初演に際しては友人のルイジ・ラブラーシュ︵バス︶が主役を務めた他、ジュリア・グリジ︵ソプラノ︶、ジョバンニ・バッティスタ・ルビーニ︵テノール︶、そしてアントニオ・タンブリーニ︵バリトン︶が出演した。この4人の歌手は、1835年にパリのイタリア・オペラでベッリーニの﹁清教徒﹂の初演を行ったのと同じ布陣であった[3]。
1841年、バルフはロンドンのライシーアム劇場にナショナル・オペラを設立したが、この事業は失敗に終わった。同年に、彼はオペラ﹁Keolanthe﹂を初演している。その後、彼はパリへと移って1843年の初頭には﹁Le puits d'amour﹂を上演、1844年にはオペラ=コミック座のための﹁エーモンの4人の息子[注 3]﹂に基づく自作オペラ、1845年にはオペラ座のための﹁L'étoile de Seville﹂が続いた。これらの作品の台本を書いたのは、ウジェーヌ・スクリーブや他である[4]。
一方、1843年にバルフはロンドンに戻り、1843年11月27日にドルリー・レーンの王立劇場で、彼の一番の成功作である﹁ボヘミアの少女﹂を初演した。この作品の公演は100夜以上を数え、まもなくニューヨーク、ダブリン、フィラデルフィア、ウィーン、シドニーなど、ヨーロッパ中やその他の各地域で上演された。1854年には、﹁La Zingara﹂と題されたイタリア語版がトリエステで上演されて大成功となり、これもイタリアやドイツの両国で国境を越えて披露された。さらに1862年には4幕形式のフランス語版﹁La Bohemienne﹂がフランスで上演され、これもまた成功を収めた[3]。
生涯[編集]
幼少期と初期キャリア[編集]
ダブリンに生まれ、幼い頃から音楽の才能を示していた。彼は舞踏指導者兼ヴァイオリニストの父と、作曲家のウィリアム・マイケル・ルークから指導を受ける[1]。彼がまだ少年の頃に、一家はウェクスフォードに移り住んだ。1814年と1815年の間に父の舞踏教室でヴァイオリンを弾き、7歳でポロネーズを作曲している。 1817年、バルフはヴァイオリニストとして公開演奏を行い、同年にはバラードを作曲した。この曲は最初﹁ヤング・ファニー Young Fanny﹂と呼ばれており、後にベストリス婦人によってPaul Pryで歌われた際には﹁恋人達の過ち The Lovers' Mistake﹂と呼ばれた。1823年に父が他界すると、まもなくロンドンに移り住んで、ドルリー・レーンにある王立劇場[注 1]の管弦楽団でヴァイオリニストを務めた。その後、彼はその管弦楽団の指揮者に就任している[2]。一方で、彼はロンドンにおいてチャールズ・エドワード・ホーンにヴァイオリンを、1824年からウィンザー城内のセント・ジョージ教会[注 2]でオルガニストとなっていたチャールズ・フレデリック・ホーンに作曲を師事した。 ヴァイオリン演奏を続ける傍ら、バルフはオペラ歌手としてのキャリアも模索していた。彼はノリッジにおいてウェーバーの﹁魔弾の射手﹂でデビューを果たしたが、これは失敗に終わった。1825年、マッザーラ︵Mazzara︶伯爵が彼を声楽と音楽の修行のためにローマへと連れていき、ケルビーニに紹介した。バルフは作曲の道も推し進めていた。彼はイタリアにおいて、最初の劇作品であるバレエ﹁La Perouse﹂を作曲している。彼はロッシーニに弟子入りし、1827年の終わりにはパリのイタリア・オペラに﹁セビリアの理髪師﹂のフィガロ役で登場した。 バルフは程なくイタリアに戻り、続く8年間の歌手活動と数曲のオペラ作曲の拠点とした。彼はこの期間にパリのオペラ座で歌っており、そこでマリア・マリブランと出会っている。1829年のボローニャでは、彼は当時18歳だったソプラノ歌手のジュリア・グリジのために、初めてとなるカンタータを作曲した。彼女は、テノールのフランチェスコ・ペドラッツィ︵Francesco Pedrazzi︶と共にこれを歌い、大きな成功を収めた。バルフはパレルモでの1829年から1830年のシーズンの祭りにおいて、彼にとって最初の完全なオペラ﹁I rivali di se stessi﹂を上演した。 1831年頃、オーストリアの血筋でハンガリー生まれの歌手のリーナ・ローゼル︵Lina Roser; 1806年-1888年︶と結婚した。2人が出会ったのはベルガモであった[3]。2人の間には2男2女が生まれている。下の息子エドワード︵Edward︶は、生後まもなく死亡した。上の息子のマイケル・ウィリアム・ジュニアは、1915年にこの世を去っている。娘はルイーザ︵Louisa; 1832年-1869年︶とヴィクトワール︵1837年-1871年︶であった。バルフはパヴィーアでオペラ﹁Un avvertimento ai gelosi﹂を、ミラノでは﹁Enrico Quarto﹂を作曲した。ミラノでは1834年にマリブランと共に、スカラ座でロッシーニの﹁オテロ﹂を歌う契約となっていた。珍しい試みとして、彼はマイアベーアのオペラ﹁エジプトの十字軍﹂に自分の音楽を加えて﹁改良﹂しようと試みたが、これによってヴェネツィアのフェニーチェ劇場での契約を放棄せざるを得なくなってしまった。作曲家としての成功[編集]
晩年[編集]
1846年から1852年にかけて、バルフはハー・マジェスティーズ・シアターでイタリア・オペラの音楽監督並びに首席指揮者を務めた[5]。ここで、彼はヴェルディのオペラのいくつかを、ロンドンの聴衆に対して初めて上演している。彼はジェニー・リンドがオペラデビューを果たした際の指揮者を務めており、その後も幾度にもわたって彼女と共演している[3]。 1851年、ロンドン万博への期待が高まる中、バルフは革新的なカンタータ﹁Inno Delle Nazioni﹂を作曲した。この曲では9人の女性歌手が歌うが、それぞれが国を表している。バルフは英語による新たなオペラの作曲を続けると同時に、大量の歌曲を作曲している。﹁When other hearts﹂、﹁I Dreamt I Dwelt in Marble Halls﹂︵﹁ボヘミアの少女﹂より︶、﹁Come into the Garden, Maud﹂、﹁Excelsior﹂︵ロングフェロー詩︶などである[6]。バルフは合計38のオペラを作曲した。また、数曲のカンタータ︵1862年の﹁マゼッパ Mazeppa﹂など︶、少なくとも1曲の交響曲を作曲している。彼の最後のオペラは、彼がこの世を去った時にほぼ完成されていた﹁The Knight of the Leopard﹂であり、イタリア語版では﹁Il Talismano﹂として大きな成功を収めた[3][7]。バルフの大規模な楽曲で、今日でも演奏されることがあるのは﹁ボヘミアの少女﹂のみである。 1864年に引退した後、ハートフォードシャーで田舎の屋敷を借りた。彼は1870年、62歳の時に自宅で没し、ケンザル・グリーンに埋葬された。1882年には、ウェストミンスター寺院で彼の肖像のメダル飾りが除幕された。ロンドン州議会[注 4]のバルフを記念する飾り板は、1912年にマリバン、セイモア通り︵Seymour Street︶12に掲げられた[8]。録音[編集]
バルフの作品は、数こそ多くないものの一定のペースで録音がなされている。 ●LP時代には﹁The Siege of Rochelle﹂、﹁ The Daughter of St. Mark﹂、﹁The Rose of Castille﹂、﹁Satanella﹂の録音があった。 ●リチャード・ボニング指揮による﹁ボヘミアの少女﹂は1991年にArgoレーベルから出されていたが、後にデッカから再発売されている、Decca 473 077-2 ●デボラ・リーデルとリチャード・ボニングによるアリアの録音のCDは、The Power of Loveという題でMelba Z-MR301082の品番で出されており、バルフ作品が数曲含まれる。 ●﹁The Maid of Artois﹂が2005年にVictorian Opera Northwestによって録音され、Cameo 2042-3の品番で入手可能である。 ●またVictorian Opera Northwestはバルフの歌曲とアリア をWRW 204-2で出している。 ●Opera Raraからは2枚のCDが出された。ORR 239には﹁Cantata Sempre pensoso e torbido﹂が収録され、ORR 277には歌曲の﹁The blighted flower﹂が収録されている。 ●2008年のオペラ・アイルランドによるバルフの﹁ファルスタッフ﹂の演奏会形式での公演は、RTÉ Lyric FMで放送されたものがRTÉ LyricFM LYRICCD119の品番で発売されており、ナクソスから入手できる[2]。 ●バルフの序曲1曲と歌曲集︵サリヴァンの楽曲もある︶はヴィクトリア朝の忘れられた劇場音楽で見つけることが出来る。 ●彼の器楽曲の一例である﹁チェロソナタ﹂が、Dutton CDLX 7225に収録されている。脚注[編集]
注釈
(一)^ 訳注‥1663年開場、シティ・オブ・ウェストミンスターのウェスト・エンドの劇場。2196席だった。︵Theatre Royal︶
(二)^ 訳注‥ウィンザー城内、エリザベス女王の居住域に近い場所に位置するゴシック建築の教会。︵St George's Chapel︶
(三)^ ドイツ語圏では長年﹁ハイモンの4人の子ども Die Vier Haimonskinder﹂という名前で親しまれている。
(四)^ 訳注‥1889年-1965年に存在したロンドンの地方自治体。今日のインナー・ロンドンにあたる地域をカバーしていた。︵London County Council︶
出典
- ^ Michael William Balfe, Oxford Music Online, accessed 17 November 2012 (subscription required)
- ^ a b Falstaff recording, RTÉ LyricFM LYRICCD119, CD notes by Basil Walsh (2008)
- ^ a b c d e Walsh Basil. "Michael William Balfe" at the British and Irish World website
- ^ Sadie, Stanley (ed) (1992). the New Grove Dictionary of Opera. Oxford: Oxford University Press. vol.1, p288. ISBN 978-0-19-522186-2
- ^ Walsh, Basil. "Michael W. Balfe (1808-70): His Life and Career" Victoria Web, accessed 7 February 2008
- ^ "What's in a name?" Archived 2011年10月5日, at the Wayback Machine. at the Excelsior Trust website. Accessed 17 August 2010.
- ^ Trutt, David. Introduction and link to English-language libretto of Il Talismano, Haddon Hall website, accessed 2 October 2010
- ^ “Balfe, Michael William (1808-1870)”. English Heritage. 2012年10月19日閲覧。
参考文献[編集]
- Webb, Alfred (1878). " Balfe, Michael William". A Compendium of Irish Biography. Dublin: M. H. Gill & son. Wikisource
- Barrett, W. A. Balfe, His Life & Work (London - 1882)
- Biddlecombe, George. English Opera 1834-64 and the works of Michael W. Balfe (New York - 1994)
- Kenny, C. L. A Memoir of Michael W. Balfe (London - 1875)
- Phelan, Robert. William Vincent Wallace, Celtic Publications (1994)
- Tyldesley, William. Michael W. Balfe: His Life and His English Operas, Aldershot, Hants, England; Burlington, VT: Ashgate (2003) ISBN 0-7546-0558-2
- Walsh, Basil. A Unique Victorian Composer (2007)
- Walsh, Basil. Extensive website on the life and work of Michael W. Balfe
- Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
外部リンク[編集]
- マイケル・ウィリアム・バルフの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- マイケル・ウィリアム・バルフの著作およびマイケル・ウィリアム・バルフを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
- The Lied and Art Songs Texts Page created and mantained from Emily Ezust
- Balfe cylinder recordings, from the Cylinder Preservation and Digitization Project at the University of California, Santa Barbara Library.
- Profile of Balfe and links to information about The Maid of Artois
- Derek B. Scott sings Balfe's musical setting (1857) of Tennyson's "Come into the Garden, Maud"
- Dictionary of National Biography (英語). London: Smith, Elder & Co. 1885–1900. .
- Sheet music for "Come with the gipsy bride; Heart bowed down", Birmingham, AL: Cawthon & McIntosh. From Alabama Sheet Music Collection.