メリケンお浜
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メリケンお浜︵めりけん おはま、1895年11月12日 - 1969年3月3日[1]︶は1920年代に活躍した娼婦。横浜市磯子区出身。
生涯[編集]
横浜市磯子区で漁師の娘として育つ。檀原照和・著﹃消えた横浜娼婦たち﹄によると、生年は1895年︵明治28年︶11月12日[2]。横浜近郊の根岸村︵現・磯子区東町付近︶の一角で育つ。弟と二人兄弟だったが、後に両親が離婚し、母親が再婚相手との間に6人の子供をもうけたため、八人兄弟の長女となる。 中区の本牧小港地区に存在した﹁チャブ屋街﹂と呼ばれる外国人向けの歓楽街で働きだし、売れっ子となる。ただし働き出した時期に関しては﹁10代の頃から﹂﹁30歳頃から﹂という二つの説があり、はっきりしない。﹁チャブ屋街のクイーン﹂として知られ、大店として名を売った﹁キヨホテル﹂の繁栄に多大な貢献をした。人呼んで﹁メリケンお浜﹂。 ﹁巨大飛行船ツェッペリン号が関東に立ち寄った際、乗組員の一人がお浜との別れを惜しむあまり、出発時間がずれ込んだ﹂﹁宛先が﹃日本国 横浜 お浜様﹄としか書かれていない外国からのラブレターがきちんと届いた﹂﹁終戦後とある進駐軍高官が日本に着くなり﹃お浜に会いたい﹄と言った﹂﹁現在の通貨に換算して年間数千万円もの稼ぎがあった﹂など真偽の定かではない数々の伝説が伝わっている。 関東大震災後、チャブ屋で働く女の大半は断髪・洋装のモガだったが、お浜は和服に白塗りの純和風で通した。また彼女の全盛期は30代前半の頃だが、チャブ屋女の平均年齢は20歳前後だった。 お浜はけっして容貌が優れていたわけではなく、﹁肉体美人﹂としてならしていた。客あしらいがうまいわけでもなかったらしい。ただ性癖が奇妙で当時の流行語﹁エログロナンセンス﹂を地で行くものとして彼女を有名にし、熱心に通う常連客を掴んだ。 日本が戦争に突入した頃、本牧を離れて伊勢佐木町に隣接する曙町でバーを開店したが、空襲により焼失。戦後の足取りははっきりしないが、昭和30年代にはいると遊廓のあった真金町でうらぶれたバーのマダムに収まっていた。しかし1969年︵昭和44年︶に73歳で強姦殺人に遭い、死亡。結局犯人は特定できなかった。脚注[編集]
(一)^ 死体が発見されたのは3月3日の朝だが、検死の結果によると、殺されたのは3月1日の夜だとみられている。
(二)^ 檀原照和・著﹃消えた横浜娼婦たち﹄︵データハウス・刊 2009年︶P46 第1章の記述による