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上京焼き討ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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415732[1]

228使[2]使[2]

32534"2"15,000[3]

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42[8]128[9][10]使[11]

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「恐るべき戦慄的な情景が展開され、全上京は深更から翌日まで、同地にあったすべての寺院、僧院、神、仏、財宝、家屋もろとも焼失し、確認されたところでは、都周辺の平地二、三里にわたって五十ヵ村ほどが焼け、最後の審判の日さながらであったという。兵士や盗賊たちは僧院に赴き、哀れな仏僧らは僧衣を俗服に替え、袖や懐に彼らが所持していた金銀、また良き茶の湯の器を押し込んだが、その結果、さっそく追剥の手中に陥り、所持品や衣服を奪われたのみならず、虐待と拷問によって、彼らが隠匿していたものを白状するように強制され、結局そのとおりにさせられてしまった。兵士や盗賊らが、出会った男女や子供たちからその所持品を奪い取るため加えていた残虐行為に接するのは、きわめて嘆かわしいことであった」


[13]44[14]殿44[13]

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[13]44[13]

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[10] [13][15]

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備考[編集]

  • 上京焼き討ちの最中、宣教師が小西隆佐を介して、信長に金平糖を献上している。
  • 久野雅司は信長が義昭の挙兵を幕府と武田氏との外交を担当していた御供衆の上野秀政が唆したものと考えてその排除を要求したもので、義昭と共に籠城していた秀政が信長に謝罪をしたことでこれ以上の攻撃を行う理由を失ったとしている。この秀政は義昭の「出頭第一」の「寵臣」と評価されると共に早くから信長の排除を主張して比叡山焼き討ちの際には義昭の御前で信長を擁護する細川藤孝と論争に及んだと伝えられている(『細川家記』)[16][17]

脚注[編集]



(一)^  1996, p. 196.

(二)^ ab 1996, p. 199.

(三)^ 

(四)^  1996, p. 203.

(五)^ abc 2019, p. 55.

(六)^ ab 1996, p. 205.

(七)^ ab 1996, p. 209.

(八)^ 46

(九)^  1996, pp. 205206.

(十)^ abc 1996, p. 206.

(11)^  2006, p. 122.

(12)^  2019, p. 233.

(13)^ abcdef 2019, p. 56.

(14)^  2019, p. 87.

(15)^ abcd 2019, p. 57.

(16)^ 742017 

(17)^ ︿2019P209-211.

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︿1996ISBN 4-642-05182-1 

 ︿201912ISBN 978-4-623-08791-4 

 宿2019 

︿13200612 

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