中山眞之亮
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中山眞之亮 | |
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肩書き | 真柱 |
別名 | 中山新治郎 |
個人情報 | |
生誕 |
梶本眞之亮 慶応2年6月19日(1866年5月7日) |
死没 | 大正3年(1914年)12月31日 |
墓所 | 奈良県天理市豊田町豊田山墓地 |
宗教 | 天理教 |
配偶者 | 中山たまへ |
子供 | 正善、玉千代 |
両親 | 父:梶本惣治郎、母:梶本はる |
別名 | 中山新治郎 |
地位 | |
任期 | 1882年(明治15年) - 1914年(大正3年) |
就任日 | 1882年(明治15年)9月22日[1] |
次代 | 中山正善 |
中山 眞之亮︵なかやま しんのすけ、慶応2年5月7日︵1866年6月19日︶ - 大正3年︵1914年︶12月31日︶は、日本の宗教家。天理教の初代真柱。初代管長。
大和国︵奈良県天理市︶出身。別名は中山新治郎︵なかやま しんじろう︶。
生涯[編集]
1866年︵慶応2年︶5月7日、大和国添上郡櫟本村︵現天理市櫟本町︶で鍛冶屋を生業とする梶本惣治郎と天理教教祖の中山みきの三女、はるの三男として生まれた。眞之亮の名前の由来は、母はるが懐妊中よりみきが﹁今度、おはるには、前川[注釈 1]の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの眞之亮やで﹂と語った事からきている[2][3]。しかしながら、明治元年の奈良県令で亮、衛門の廃止が布令され、新治郎に改めた。本人は公的な書類などでは新治郎を用いたが、一生涯、通名として眞之亮を使い続けた[3]。人々は、教長、本部長、管長などの役職名で呼ぶこともあった。 眞之亮は明治13年︵1880年︶、15歳のときに中山家に入籍、養子となる。この際、天理教では神意に従ったとされている[3]。教祖の息子中山秀司が1881年︵明治14年︶に死去した事をきっかけに、翌15年に17歳で中山家の戸主となる。この年、秀司の妻、まつゑも死去したために、﹁道のしんばしら﹂として、天理教初代管長に就任した[注釈 2]となった。 中山家に入ってから死去するまでの眞之亮の人生は、ちょうど天理教の教団草創期であり、波瀾万丈であった。この頃から警察の取り調べも熾烈になり、その対応に苦心した。こうしたことから度重なる警察の取締りを避けるために、教会設置公認運動の中心となって活動した。1888年︵明治21年︶には教祖没後1周年を機に予定した﹁教祖1年祭﹂が警察の圧力により中止させられるなど、様々な問題・事件が起き、その解決に精励しながら、神道本局、さらには認可が下りなかった東京府の許可を取り付け、7月には本部を現在の場所に移転し、同年11月30日には﹁天理教教会規約﹂を制定するなど、教会本部の礎を築いた。 しかしながら、急速に発展していく天理教に対して、明治政府は干渉するようになり、明治24年︵1891年︶4月6日に発布された内務省秘密訓令甲第12号により、再び厳しい弾圧を受け、さらには同年11月に神道本局よりも、以後三年間の新規教会設置の禁止をうける。眞之亮はその対応に苦慮した。これをうけて、教内でも一派独立の声が高まり、明治32年︵1899年︶5月に神道本局管長・稲葉正善より、一派独立の推薦もあって、独立運動を展開し度重なる不認可を経て、五回目の請願の際には自ら上京して奔走し、明治41年(1907年︶11月の一派独立に尽力した。一派独立後は教会本部の環境整備につとめ、神殿の普請が進められ、大正3年に完了した。 ﹁みかぐらうた﹂本とその解釈本の公刊、﹁天理教教典︵﹁明治教典﹂と呼ばれるもの。現在公刊されている天理教教典とは一部の内容が大きく異なる︶﹂の公布、教義の整備、機関誌﹁みちのとも﹂創刊、男女平等の教えの実践を目的とした天理教婦人会の創立、海外への布教、天理教校・天理高等学校開設などに力を注いだ。 1914年︵大正3年︶12月31日、49歳で死去した。家族[編集]
自身は天理教教祖の中山みきの孫に当たる。1890年︵明治23年︶12月7日に教祖・中山みきの孫で自身の従姉妹の中山たまへと結婚、長男で後の真柱・正善と天理教婦人会第三代会長の玉千代をもうけている。 兄弟には天理教の要職を歴任した実弟の梶本楢治郎のほか、生まれ変わったとされる兄の亀蔵、松治郎、たけ、ひさがいる。略歴[編集]
●1866年︵慶応2年︶5月7日 - 梶本家三男として出生。 ●1880年︵明治13年︶- 中山家にうつる。翌年9月23日に入籍。 ●1882年︵明治15年︶- 中山家の家督を相続、実質的に真柱となる。 ●1884年︵明治17年︶- ﹁天輪教会創立事務所﹂設置、以後教会設置認可運動が本格化する。 ●1887年︵明治20年︶2月18日 - 教祖・中山みき死去、享年90。以後、飯降伊蔵が本席となる。 ●1888年︵明治21年︶3月30日 - 天理教会設立願書提出のために上京、同年4月に神道直轄天理教会認可。 ●1891年︵明治23年︶12月7日 - 中山たまへと結婚。翌年、教祖5年祭実施。 ●1897年︵明治29年︶4月6日 - 内務省からいわゆる秘密訓令甲第12号発布、連日会議で眞之亮は諸事改革を決議、天理王命を天理大神に改称。 ●1900年︵明治33年︶4月 - 天理教校開校、入学者110名、真柱も自ら教壇にたつ。 ●1904年︵明治36年︶5月29日 - 一派独立運動請願資料として﹃天理教教典﹄︵明治教典︶編纂、時代背景もあり独自色は薄れ、尊皇や愛国など神道理念が中心となる。 ●1909年︵明治41年︶4月1日 - 旧制天理中学校︵後の天理高校)開校、9月には天理教校別科開設。 ●1909年︵明治41年︶11月27日 - 天理教一派独立、﹁神道直轄天理教会本部﹂は﹁天理教教会本部﹂に改称、同時に中山新治郎として正式に天理教管長に就任、天理教庁設置、同年12月天理教教規制定。 ●1911年︵明治43年︶- このころより、病気がちになる。翌年、神殿建築起工式実施。 ●1914年︵大正3年︶4月 - 大正普請竣工、同年12月31日、49歳で死去。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ みきの生誕家 (二)^ 明治政府の政令で、神道および仏教の一宗一派を管轄する長を﹁管長﹂と呼んだために、天理教でも一派独立後にこの呼称を用いた。天理教ではあくまで社会的な呼称だとしており、第二次世界大戦後に制定された﹁天理教教規﹂にてあらためて﹁真柱﹂を制定している。︵天理大学付属おやさと研究所 (1997年11月24日). 改訂 天理教事典. 天理教道友社. p. 236. ISBN 4-8073-0412-7出典[編集]
- ^ 深谷忠一 (2014-09). “『教祖伝』探究(3)年限の理” (pdf). Glocal Tenri Vol.15 (天理大学) 2015年8月23日閲覧。.
- ^ 深谷忠一 (2014-09). “『教祖伝』探究(3)年限の理” (pdf). Glocal Tenri Vol.15 (天理大学) 2015年8月23日閲覧。.
- ^ a b c 天理大学付属おやさと研究所 (1997年11月24日). 改訂 天理教事典. 天理教道友社. p. 695. ISBN 4-8073-0412-7
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