中林貞男
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中林 貞男︵なかばやし さだお、1907年10月8日-2002年3月10日︶は、日本の社会運動家。日本生活協同組合連合会︵日本生協連︶第4代会長。
経歴・人物[編集]
富山県出身。1932年、早稲田大学を卒業。報知新聞社会部記者となり、二・二六事件や相沢事件の取材にもあたった。1940年、大日本産業報国会が発足すると、藤井丙午の勧めにより同会会長平生釟三郎の秘書に転じた。 賀川豊彦らによる1945年11月の日本協同組合同盟の創立に参加し、事務局長に就任。1951年、日本生活協同組合連合会の発足とともに専務理事となった。1971年-1985年、14年間にわたって第4代会長を務め、生協育ての親といわれている。のち日本生協連名誉会長。1989年、世界の協同組合人にとって最高の栄誉とされる﹁アルビン・ヨハンソン・ゴールド・メダル﹂を受賞した。 原水爆禁止運動統一のために尽力するなど、1970年代後半から1980年代の平和運動でも重要な役割を果たした。 東京都世田谷区の成勝寺に墓があり、自筆で書かれた﹁一人は万人のために 万人は一人のために﹂の文字が刻まれている [1][2]。脚注[編集]
- ^ 岩垂弘 『「核」に立ち向かった人びと 』 日本図書センター、2005年、pp.159-169
- ^ 中林貞男【なかばやしさだお】 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説