丹野雄二
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丹野 雄二︵たんの ゆうじ、1932年9月26日 - 2001年1月26日︶は日本の映画監督、アニメーション演出家、プロデューサー、脚本家。東京都出身[1]。
概要[編集]
1959年[注釈 1]、日活に入社[2]。﹁涙の季節﹂やハレンチ学園シリーズなど、実写映画の監督を手掛ける。 1965年に映画女優の稲垣美穂子と結婚。 1971年に日活を退社し[3]、同年1月に﹁ダックスインターナショナル﹂を設立。以後、﹁まんが世界昔ばなし﹂や﹁まんがはじめて物語シリーズ﹂を中心にテレビアニメのプロデュースを手掛けた。 1977年に演劇集団﹁目覚時計﹂を設立し[4]、テレビアニメと並行してミュージカルのプロデュースも手掛けた。 2001年1月26日、心不全のため東京都新宿区の慶応大学病院で死去。68歳没[1][5]。参加作品[編集]
実写[編集]
- 助っ人稼業(1961年)脚本
- 山のかなたに(1966年)テレビドラマ助監督
- 愛妻くん(1966年)テレビドラマ監督
- 結婚の条件(1967年)テレビドラマ演出
- 愛は惜しみなく(1967年)脚本
- ある日わたしは(1967年)テレビドラマ監督
- 花と果実(1968年)テレビドラマ監督
- 喧嘩太郎(1968年)テラビドラマ監督
- BG・ある19才の日記 あげてよかった!(1968年)本編監督デビュー作
- 涙の季節(1969年)監督
- 残酷おんな私刑(1969年)監督
- 涙でいいの(1969年)企画、監督
- プロフェッショナル(1969年)監督
- 女の警察 国際線待合室(1970年)
- 青春喜劇 ハレンチ学園(1970年)監督
- ハレンチ学園 身体検査の巻(1970年)監督
- ワンパク番外地(1971年)原案、企画、監督
- だから大好き!(1972年)監督
アニメーション[編集]
- 山ねずみロッキーチャック(1973年)構成(途中降板[6])
- 小さなバイキングビッケ(1974年)シリーズ構成
- まんが世界昔ばなし(1976年)プロデューサー
- まんがはじめて物語(1978年)プロデューサー
- 野ばらのジュリー(1979年)原案、企画、プロデューサー
- 巴里のイザベル(1979年)企画、プロデューサー
- 杜子春(1981年)プロデューサー
- イーグルサム(1983年)プロデューサー
- まんがどうして物語(1984年)プロデューサー
- まんがなるほど物語(1986年)プロデューサー
- ブンナよ木からおりてこい(1987年)監督
- 新まんがなるほど物語(1988年)プロデューサー
- まんがはじめて面白塾(1989年)プロデューサー
- チスト みどりのおやゆび(1990年)監督
- 21世紀まんがはじめて物語(2001年)企画
ミュージカル[編集]
- そんごくう プロデューサー[7]
- かぐや姫 プロデューサー[7]
- 白姫伝説(1987年)プロデューサー[7][8]
- ファーブルの昆虫記(1993年)プロデューサー[8]
- ベィビー ベィビー プロデューサー[9]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ ただし『産経新聞』2001年1月27日では1958年とされている。
出典[編集]
(一)^ ab﹃産経新聞﹄2001年1月27日。
(二)^ “映画監督の丹野雄二さん死去︵元日活映画監督︶”. CINEMA TOPICS (2001年1月28日). 2020年11月3日閲覧。
(三)^ ﹃毎日新聞﹄2001年1月27日。
(四)^ “<劇団の歩み>”. 劇団目覚時計. 2020年11月3日閲覧。
(五)^ 日刊スポーツ 訃報
(六)^ 小野耕世﹁高橋茂人,日本におけるテレビCMとTVアニメの草創期を語る(TCJからズイヨーへの歴史)﹂﹃京都精華大学紀要﹄第26巻、京都精華大学、2004年、NAID 40006139853。
(七)^ abc﹃読売新聞﹄1979年7月15日。
(八)^ ab“稲垣 美穂子”. 劇団目覚時計. 2020年11月3日閲覧。
(九)^ “ベィビー ベィビー”. 劇団目覚時計. 2020年11月3日閲覧。