佐竹永邨
佐竹 永邨︵さたけ えいそん、弘化2年2月23日︿1845年3月30日﹀ - 大正11年︿1922年﹀8月7日︶は幕末から大正期の南画家。
人物[編集]
旧姓本間。父は本間松蔵︵春雄︶、母はキソ、名は信、字は千畝、通称は竹松。永邨は号。磐城白河の生まれ。 はじめに馬弓碧潭について画の手ほどきを受け、地元白河の画人蒲生羅漢に師事した。文久年間に江戸に出て佐竹永海に入門。画力を認められ永海の次女[注 1]の婿となり佐竹家の分家となる。本家の義兄に佐竹永湖。 維新後も日本美術協会、日本画会、正派同志会などの委員となる。明治10年︵1877年︶、内国勧業博覧会に﹃山水﹄を出品した。大正11年︵1922年︶没、享年78。谷中霊園に墓がある。弟子に石川寒巌や山本琴嶺がいる。山岡米華にも画の指導をしている。作品[編集]
- 「富士筑波之図」明治41年(1908年)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 永海の15人目の妻に生まれた娘。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 「佐竹永海」福島県立博物館 1998年
- “デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説”. 講談社、朝日新聞社. 2012年6月7日閲覧。
- “美術人名辞典の解説”. 思文閣. 2012年6月7日閲覧。