保科正恒
保科 正恒︵ほしな まさつね、宝暦元年︵1751年︶[1] - 寛政9年12月6日︵1798年1月22日︶︶は江戸時代後期の旗本。飯野藩主家分家の旗本保科氏第7代目当主。諱は正恒。通称は辨三郎。父は保科正盈。実母は某氏。実子は堀秀貞の妻、正実︵大次郎︶、保科正棟。石高は上野国群馬郡・吾妻郡のうち2500石。
生涯[編集]
父・正盈の正室は米倉昌倫の娘とされているが、正恒の母は某氏と寛政重修諸家譜はしている。明和5年11月30日︵1769年1月7日︶に父の隠居をうけて家督を継ぎ、明和6年︵1769年︶に徳川家治に初御目見えを済ませ、小姓組番士となる。天明3年7月8日︵1783年8月5日︶に浅間山の大噴火が起こり、発生した泥流により知行地で被害が出る。 寛政9年12月6日︵1798年1月22日︶に死去。享年47。法名は義冬。墓所は代々の葬地である麻布の天眞寺。長男の正実︵大次郎︶は早世しており、次男の正棟が跡を継いだ。脚注[編集]
- ^ 寛政重修諸家譜記載の享年からの逆算