内山田洋
内山田 洋 | |
---|---|
出生名 | 内山田 道生 |
生誕 | 1936年6月6日 |
出身地 | 日本 福岡県柳川市 |
死没 | 2006年11月3日(70歳没) |
学歴 | 福岡県立伝習館高等学校卒業 |
ジャンル | ムード歌謡、歌謡曲 |
職業 | 歌手・作曲家 |
担当楽器 | ギター、キーボード |
活動期間 | 1957年 - 2006年 |
共同作業者 | 内山田洋とクール・ファイブ |
内山田 洋︵うちやまだ ひろし、本名‥内山田 道生︵みちお︶、1936年︵昭和11年︶6月6日 - 2006年︵平成18年︶11月3日︶は、日本の歌手・作曲家。血液型AB型。
来歴・人物[編集]
福岡県柳川市出身。 高校時代は水泳選手として活躍。水泳は後々まで趣味としており、営業には欠かさず水着を持参していた。また隠れマッチョ芸能人として知る人ぞ知る存在であり、晩年まで腕立て伏せ150回を日課としていた。 1957年ころから福岡県内のベースキャンプで音楽活動を開始。クラブやキャバレーでの営業を経て、1967年に小林正樹・岩城茂美・森本繁・宮本悦朗らと﹁内山田洋とクール・ファイブ﹂を結成、長崎市のキャバレー﹁銀馬車﹂の専属となる。自主制作した﹃涙こがした恋﹄が有線放送で人気となり、徐々に音楽家としての地歩を固めた。1968年、前川清をメンバーに加え、1969年に﹃長崎は今日も雨だった﹄でデビュー。これが大ヒットとなり、一躍スターダムにのし上がった。その後も、﹃中の島ブルース﹄、﹃そして、神戸﹄、﹃噂の女﹄、本人作曲の﹃東京砂漠﹄や﹃港の別れ唄﹄など、多くのヒットを飛ばし、ムード歌謡の旗手として1970年代から80年代の音楽シーンを席巻した。 1987年にリードボーカルの前川がクール・ファイブを脱退するが、その後もメンバーチェンジを繰り返しながらクール・ファイブとしての活動を続けていた︵詳細については﹁内山田洋とクール・ファイブ﹂の記事を参照︶。 2006年11月3日、肺癌のため横浜市の病院にて死去[1]。70歳没。脚注[編集]
出典[編集]
- ^ “内山田洋さんが死去 クールファイブの元リーダー”. 共同通信. (2006年11月5日) 2015年7月12日閲覧。