千葉胤秀
表示
千葉 胤秀︵ちば たねひで、1775年︵安永4年︶ - 1849年2月26日︵嘉永2年2月4日︶︶は、江戸時代の和算家。一関藩藩士。
経歴[編集]
●1775年︵安永4年︶ - 陸奥国磐井郡清水村︵現‥岩手県一関市︶に生まれる。農民であったが、一関藩家老の梶山次俊に和算を学ぶ。 ●1818年頃 - 江戸に出て長谷川寛の門下となる[1]。 ●1828年︵文政11年︶ - 一関藩士となる。 ●1830年︵天保元年︶ - 和算書﹃算法新書﹄を著す︵師である長谷川寛の著ともいわれる[2]︶。 ●1849年2月26日︵嘉永2年2月4日︶ - 死去。墓所は一関市祥雲寺。 ●1924年︵大正13年︶ - 従五位を追贈された[3]。旧家[編集]
岩手県一関市花泉町に、近隣の農民に和算を広める教室としても使われた旧宅が、市の文化財として保存されている[4]。脚注[編集]
(一)^ “千葉胤秀画像”. 一関市博物館. 2018年8月25日閲覧。
(二)^ “朝日日本歴史人物事典の解説 千葉胤秀”. 朝日日本歴史人物事典. 2018年8月25日閲覧。
(三)^ 田尻佐 編﹃贈位諸賢伝 増補版 上﹄︵近藤出版社、1975年︶特旨贈位年表 p.52
(四)^ “和算家の旧宅、保存で誤算 屋根に穴、壁は剥落…傷みで散々 歴史団体カンカン﹁保護とは呼べぬ状態﹂”. 河北新報社. 2018年8月25日閲覧。