原田種成 (司法官)
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原田 種成︵はらだ たねなり、1841年2月20日︵天保12年1月29日[1]︶ - 1903年︵明治36年︶12月3日[2][注 1]︶は、日本の武士︵佐賀藩士︶、司法官。大審院部長判事。
経歴[編集]
肥前佐賀藩士[3]。士族・原田矞雲の二男[1]。戊辰戦争では北陸道の先鋒となり奥羽に転戦し戦功を挙げた[1][3]。1872年︵明治5年︶司法権大録を経て、岩崎直礼、中村元嘉らと権大解部に昇り、1876年︵明治9年︶司法権少丞に任じた[3]。1877年︵明治10年︶大阪上等裁判所判事に補され、1882年︵明治15年︶大分始審裁判所判事長に転じ、1884年︵明治17年︶2月に大審院詰となった[3]。ついで大審院評定官に任じ、刑事第二局勤務を経て、1891年︵明治24年︶大審院部長に進み、1892年︵明治25年︶7月、司法官弄花事件懲戒裁判長を仰せ付けられた[3]。1900年︵明治33年︶会計検査官懲戒裁判所裁判官となり、同年判検事弁護士試験委員長を務めた[1]。1903年︵明治36年︶12月3日、胃癌により自邸で薨去した[3]。栄典[編集]
- 位階
- 勲章等
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『国民過去帳 明治之巻』では12月2日薨去。