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厳 家熾︵げん かし︶は、清末民初の政治家。北京政府時代は地方官職を歴任。後に中華民国維新政府、南京国民政府︵汪兆銘政権︶で要職についた。字は孟繁。
蘇州の名族と言われた東山厳氏の家庭に生まれる[1]。清末は、江西省九江府知府、景徳鎮同知、広東省韶州府知府、広州府知府、高雷陽道・巡警道と歴任した。なお任官中に、黄花崗で処刑された革命派72人︵72烈士︶の遺体を収容したとされる。
1913年︵民国2年︶1月、広東省国税庁籌備処処長に任ぜられる。まもなく粤海関監督に異動した。翌年5月、広東省財政司司長となる。次の年の5月には署理湖南省財政庁庁長に転じた。1916年︵民国5年︶8月辞任し、1920年︵民国9年︶10月、江蘇省財政庁長に任命された。同年、東南大学校董にもなっている。1925年︵民国14年︶辞任し、河北・熱河官産総処副処長に任命された。
1938年︵民国27年︶3月、梁鴻志が中華民国維新政府を設立すると、厳家熾は財政部次長に任じられた。11月、いったん職を免ぜられたが、翌年4月、病に倒れた財政部長陳錦濤の代理となる︵陳は6月に死去︶。9月、正式に後任の部長に昇進した。
1940年︵民国29年︶3月、汪兆銘︵汪精衛︶が樹立した南京国民政府に維新政府が合流すると、厳家熾は財政部政務次長兼監察院監察使に任ぜられた。財政部政務次長は1943年︵民国32年︶1月まで、監察院監察使は1944年︵民国33年︶5月まで、それぞれつとめている。
日本敗北後、厳家熾は漢奸として国民政府に逮捕され、懲役13年の判決を受けた。中華人民共和国が成立した後の1952年、故郷の広州で死去した。享年68。
参考文献[編集]