向瑞琨
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向瑞琨 | |
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プロフィール | |
出生: | 1883年[1] |
死去: |
1929年(民国18年)[1]![]() |
出身地: |
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職業: | 政治家・実業家・ジャーナリスト |
各種表記 | |
繁体字: | 向瑞琨 |
簡体字: | 向瑞琨 |
拼音: | Xiàng Ruìkūn |
ラテン字: | Hsiang Jui-k'un |
和名表記: | こう ずいこん |
発音転記: | シアン ルイクン |
向 瑞琨︵こう ずいこん︶は清末民初の政治家・実業家・ジャーナリスト。北京政府の要人。字は淑予[2]。旧名は瑞琦[1]。
事績[編集]
湖南時務学堂を卒業後、日本に留学し、明治大学商工科で学ぶ[3]。帰国後は、両江総督端方の下で商務文案に任命された。1910年︵宣統2年︶、南洋勧業博覧会幇弁をつとめる。翌年に工商科挙人として農商部に赴任した。さらに漢口へ移り、新聞﹃復報﹄を編集した[2]。 中華民国成立後は北京に移り、﹃亜東新報﹄、﹃東大陸報﹄の両紙で主筆をつとめる。さらに、湯化竜らと民主党を結成した。1912年︵民国元年︶8月、北京政府の工商部次長に就任する。翌年7月には、段祺瑞臨時内閣で一時的に工商総長を代理した[2]。 その後、向瑞琨は全国商会連合会の創設に携わり、副会長に任じられる。まもなく会長に昇格した。1915年︵民国4年︶、袁世凱が皇帝即位を画策すると、向瑞琨は帰郷する。以後、故郷において商工業の振興に取り組み、瑞興玻璃工廠の総理などを務めた[2]。1929年︵民国18年︶、死去。享年47。注[編集]
参考文献[編集]
●徐友春主編﹃民国人物大辞典 増訂版﹄河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 ●﹁向瑞琨﹂寧郷県档案信息網︵寧郷県史志档案局ホームページ︶、2011年6月27日 ●劉寿林ほか編﹃民国職官年表﹄中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 ![]()
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