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呉 賛周︵ご さんしゅう︶は、中華民国の軍人・政治家。北京政府、直隷派の軍人。後に中華民国臨時政府、南京国民政府︵汪兆銘政権︶の要人となった。
初期の活動[編集]
保定講武堂を卒業し、日本へ留学する。陸軍士官学校を卒業した。帰国後は孫伝芳の部下となる。国民政府の北伐を迎撃する際には、安国軍第2軍第6混成旅旅長をつとめている。1926年︵民国15年︶、孫伝芳の主力部隊が中国国民党の北伐軍に敗北すると、呉賛周は天津へ逃れて下野した。その後、帰郷している。
国民政府時代になると、正定県に駐屯していた国民革命軍が、呉賛周に対して様々な名目で税金徴収や邸宅占用などを行っている。そのため呉は、国民政府に恨みを抱いたという。
盧溝橋事件勃発後の1937年︵民国26年︶10月、正定県に日本軍が侵攻してくる。呉賛周は、日本の北支那方面軍第1軍司令官・香月清司と同学であった関係から、停戦交渉を行った。その結果、停戦はまとまり、呉は県の維持会会長として、日本軍に協力することになっている。
親日政権下での活動[編集]
同年12月、王克敏が中華民国臨時政府を組織すると、呉賛周もこれに加わった。翌年2月に、維持会が改組され、正定県政府が成立すると、呉は県知事となっている。同年秋、冀南道尹公署道尹に昇進した。1939年︵民国27年︶6月、河北省省長高凌霨が辞任すると、呉が後任の河北省省長に任命されている。
1940年︵民国29年︶3月、臨時政府が汪兆銘︵汪精衛︶の南京国民政府に合流しても、呉が引き続き河北省長をつとめた。あわせて華北政務委員会委員に任命されている。河北省省長には、1943年︵民国32年︶2月28日まで在任した︵後任は杜錫鈞︶[1]。河北省長を退いた後に、高等警官学校校長に任命され、中将の位を授与される。1945年︵民国34年︶、職を辞し、天津永利化学公司董事長に転じた。
日本敗北後、呉賛周は国民政府により漢奸として逮捕され、北平で収監される。しかし国民政府において、裁判を受けることはなかった。中国人民解放軍が北平を接収して後に、人民法院により審理され、呉は無期懲役の判決を受ける。
1949年10月2日、呉賛周は癌のため獄中で死去した。享年65︵満64歳︶。
- ^ 「北支省長更迭 現役将軍を任命」『朝日新聞』(東京)昭和18年(1943年)3月3日、2面。