堀雅昭
堀 雅昭︵ほり まさあき、1962年5月6日[1] - ︶は、日本の近現代史ノンフィクション作家。地方在住・編集ディレクター。UBE出版代表。
堀は曽祖母の家系に関わる椿八幡宮近くの墓所の調査と毛利家文書を柱とする文献取材から﹃靖国の源流 初代宮司・青山清の軌跡﹄︵2010年、弦書房︶、﹃琴崎八幡宮物語﹄︵2011年、琴崎八幡宮︶、﹃靖国誕生﹄︵2014年、弦書房︶、﹃靖国神社とは何だったのか﹄︵令和2年、宗教問題︶など、家歴に関係する作品を上梓した[注釈 1]。 祖父の堀磨は大分県直入郡宮砥村︵現、大分県竹田市の一部︶の出身で、宮砥村村長・堀頼彦の次男︵長男の堀金馬の孫は筑波大学名誉教授の堀洋道︶。磨は日韓併合直前に渡韓し、朝鮮総督府官吏︵郵便局長歴任、最終履歴は総督府営林廠書記官︶となるが、大正末に宇部市に入り、沖ノ山炭鉱︵後の宇部興産、現・UBE︶の人事係として、主に朝鮮人労働者の労務管理を担った。﹃寺内正毅と近代陸軍﹄︵2019年、弦書房︶を書くきっかけが、祖父・磨が﹁朝鮮総督府に勤めていたから﹂と同書の﹁あとがき﹂で語っている。[注釈 2][注釈 3] 堀の﹃井上馨 ―開明的ナショナリズム﹄︵2013年、弦書房︶は継母ヒサの祖父の萩椿八幡宮青山大宮司家と井上馨の祖先が縁続きになる関係から、東京広尾の井上旧侯爵家︵東京大学名誉教授・井上光貞︹昭和58年没︺の家︶の協力を得て新資料を発掘、作品化したもの。本書をもとにNHK大阪放送局が井上馨と伊藤博文の友情をテーマにした﹁友がいれば越えていける﹂を製作、2015︵平成27︶年1月7日の歴史秘話ヒストリアで放映。その延長線上に、同年12月3日の井上馨の百回忌法要に堀は井上家の菩提寺・永谷寺︵麻布︶に招かれ、霞会館︵旧華族会館︶で追悼講演第1部の講師を務めた︵第2部の講師は東京大学名誉教授の伊藤隆︶。このときの講演記録は、井上家が﹁井上馨百回忌念講演会講演集﹂としてまとめ、関係者に配布すると共に、国会図書館やゆかりのある山口県立図書館などに寄贈している。 ﹃井上馨﹄に続き、堀が執筆した﹃鮎川儀介 ―日産コンツェルンを作った男﹄︵2016年、弦書房︶は井上家から親戚筋にあたる鮎川家を紹介され、作品作りが進められた。本書では東京の日本水産本社が協力し、同社を通じて日産コンツェルンを長年研究してきた宇田川勝︵法政大学名誉教授︶を取材。宇田川もまた、直後に出した﹃日産の創業者 鮎川儀介﹄︵2017年、吉川弘文館︶の﹁はしがき﹂で、戦後刊行された鮎川の代表的研究書として小島直記﹃鮎川儀介伝﹄、小沢親光﹃鮎川儀介伝﹄、井口治夫﹃鮎川儀介と経済的国際主義﹄と共に堀の作品を挙げている。山口放送は、堀の﹃鮎川儀介﹄をもとに1時間の没後50年特別記念番組﹃産業ユートピアを夢見た男﹄を製作。堀も脚本づくりに参画し、2017︵平成29︶年2月25日に山口県内で放映。つづいて同年10月22日に系列の日テレBSで全国放送されたことで反響を呼び、鮎川儀介の孫・鮎川純太より﹁日産で騒動が起きている﹂と堀に連絡が入る。その後、2018︵平成30︶年11月19日に日産自動車のカルロス・ゴーン会長が金融商品取引法違反で逮捕され、国外逃亡する事件が起きた。[要出典] 堀が2017︵平成29︶年2月に弦書房から上梓した﹃関門の近代 ―二つの港から見た一〇〇年﹄は、祖母ミツエの実母・京の家系である徳山の久野家の資料をもとに著した作品。﹁あとがき﹂で、﹁門司港は明治三〇年生まれの祖母︵父方︶の親元があった﹂として、出光佐三、中野真吾と共に﹁門司の三羽烏﹂と称された久野勘助の家を紹介している。[注釈 4][注釈 5][注釈 6] 2021︵令和3︶年11月に宇部市が市制施行100周年を迎えることで、市とコラボで堀が宇部市制出版企画実行委員会を立ち上げ、同年8月に同会及び弦書房より刊行した﹃村野藤吾と俵田明 ー革新の建築家と実業家ー﹄は、第34回和辻哲郎文化賞の一般部門︵推薦109点︶の最終候補︵上位5点︶まで残った。選考委員の阿刀田高氏は、﹁︿建築は時代の思想を含んで激変しているんだ﹀とわかり、現在にふさわしい力作﹂と選考評で同作を評価している︵姫路文学館︹和辻哲郎文化賞事務局︺発行﹃第34回和辻哲郎文化賞受賞作発表資料﹄︶。
来歴と作品[編集]
1962年5月6日、山口県宇部市の一般的なサラリーマン家庭の長男として生まれる。 宇部市立藤山小学校、同藤山中学校、山口県立宇部高等学校理数科を卒業︵庵野秀明の2年後輩︶。 山口大学理学部生物学科︵千葉喜彦研究室︶を卒業し[2]、九州の製薬会社研究所︵薬理研究室︶に就職。その後、公立中学校臨時採用教員、非常勤講師等を経て作家活動をはじめる。 2022年8月刊行の﹃宇部と俵田三代﹄の出版を機に、UBE出版を立ち上げる。堀は曽祖母の家系に関わる椿八幡宮近くの墓所の調査と毛利家文書を柱とする文献取材から﹃靖国の源流 初代宮司・青山清の軌跡﹄︵2010年、弦書房︶、﹃琴崎八幡宮物語﹄︵2011年、琴崎八幡宮︶、﹃靖国誕生﹄︵2014年、弦書房︶、﹃靖国神社とは何だったのか﹄︵令和2年、宗教問題︶など、家歴に関係する作品を上梓した[注釈 1]。 祖父の堀磨は大分県直入郡宮砥村︵現、大分県竹田市の一部︶の出身で、宮砥村村長・堀頼彦の次男︵長男の堀金馬の孫は筑波大学名誉教授の堀洋道︶。磨は日韓併合直前に渡韓し、朝鮮総督府官吏︵郵便局長歴任、最終履歴は総督府営林廠書記官︶となるが、大正末に宇部市に入り、沖ノ山炭鉱︵後の宇部興産、現・UBE︶の人事係として、主に朝鮮人労働者の労務管理を担った。﹃寺内正毅と近代陸軍﹄︵2019年、弦書房︶を書くきっかけが、祖父・磨が﹁朝鮮総督府に勤めていたから﹂と同書の﹁あとがき﹂で語っている。[注釈 2][注釈 3] 堀の﹃井上馨 ―開明的ナショナリズム﹄︵2013年、弦書房︶は継母ヒサの祖父の萩椿八幡宮青山大宮司家と井上馨の祖先が縁続きになる関係から、東京広尾の井上旧侯爵家︵東京大学名誉教授・井上光貞︹昭和58年没︺の家︶の協力を得て新資料を発掘、作品化したもの。本書をもとにNHK大阪放送局が井上馨と伊藤博文の友情をテーマにした﹁友がいれば越えていける﹂を製作、2015︵平成27︶年1月7日の歴史秘話ヒストリアで放映。その延長線上に、同年12月3日の井上馨の百回忌法要に堀は井上家の菩提寺・永谷寺︵麻布︶に招かれ、霞会館︵旧華族会館︶で追悼講演第1部の講師を務めた︵第2部の講師は東京大学名誉教授の伊藤隆︶。このときの講演記録は、井上家が﹁井上馨百回忌念講演会講演集﹂としてまとめ、関係者に配布すると共に、国会図書館やゆかりのある山口県立図書館などに寄贈している。 ﹃井上馨﹄に続き、堀が執筆した﹃鮎川儀介 ―日産コンツェルンを作った男﹄︵2016年、弦書房︶は井上家から親戚筋にあたる鮎川家を紹介され、作品作りが進められた。本書では東京の日本水産本社が協力し、同社を通じて日産コンツェルンを長年研究してきた宇田川勝︵法政大学名誉教授︶を取材。宇田川もまた、直後に出した﹃日産の創業者 鮎川儀介﹄︵2017年、吉川弘文館︶の﹁はしがき﹂で、戦後刊行された鮎川の代表的研究書として小島直記﹃鮎川儀介伝﹄、小沢親光﹃鮎川儀介伝﹄、井口治夫﹃鮎川儀介と経済的国際主義﹄と共に堀の作品を挙げている。山口放送は、堀の﹃鮎川儀介﹄をもとに1時間の没後50年特別記念番組﹃産業ユートピアを夢見た男﹄を製作。堀も脚本づくりに参画し、2017︵平成29︶年2月25日に山口県内で放映。つづいて同年10月22日に系列の日テレBSで全国放送されたことで反響を呼び、鮎川儀介の孫・鮎川純太より﹁日産で騒動が起きている﹂と堀に連絡が入る。その後、2018︵平成30︶年11月19日に日産自動車のカルロス・ゴーン会長が金融商品取引法違反で逮捕され、国外逃亡する事件が起きた。[要出典] 堀が2017︵平成29︶年2月に弦書房から上梓した﹃関門の近代 ―二つの港から見た一〇〇年﹄は、祖母ミツエの実母・京の家系である徳山の久野家の資料をもとに著した作品。﹁あとがき﹂で、﹁門司港は明治三〇年生まれの祖母︵父方︶の親元があった﹂として、出光佐三、中野真吾と共に﹁門司の三羽烏﹂と称された久野勘助の家を紹介している。[注釈 4][注釈 5][注釈 6] 2021︵令和3︶年11月に宇部市が市制施行100周年を迎えることで、市とコラボで堀が宇部市制出版企画実行委員会を立ち上げ、同年8月に同会及び弦書房より刊行した﹃村野藤吾と俵田明 ー革新の建築家と実業家ー﹄は、第34回和辻哲郎文化賞の一般部門︵推薦109点︶の最終候補︵上位5点︶まで残った。選考委員の阿刀田高氏は、﹁︿建築は時代の思想を含んで激変しているんだ﹀とわかり、現在にふさわしい力作﹂と選考評で同作を評価している︵姫路文学館︹和辻哲郎文化賞事務局︺発行﹃第34回和辻哲郎文化賞受賞作発表資料﹄︶。
注釈[編集]
(一)^ 祖母ミツエの父方・野村家が、明治維新後にクリスチャンとなり、大正前半に徳山から藤山村︵現、山口県宇部市藤山︶に出て呉服商となって以後、自宅に牧師を招いて布教活動を始めたことで、現在の宇部市の緑橋教会︵3代目牧師の陣内厚生の息子がシンガーソングライターとなった陣内大蔵︶の創立を牽引していた。徳山から宇部市藤山了善河内墓地に移転した野村家の墓所は緑橋教会に寄贈され、教会の共同墓地となっている︵了善河内墓地の最上層に存在︶。こうした家歴からキリスト教についても興味を持った堀が、書いた関連作品が﹃中原中也と維新の影﹄︵2009年、弦書房︶であった。これはミツエの父・野村喜三が吉敷毛利家家臣の服部章蔵、継母ヒサが下関の青山章三郎から洗礼を受けクリスチャンとなり、緑橋教会創立を主導したことで、服部章蔵の親戚筋である詩人・中原中也の家歴から作品を分析し、明治維新史を重ねた異色の評伝である。
(二)^ 藩政期の堀家の墓は大分県竹田市次倉﹁政所﹂に現存し、﹁堀来国之墓誌﹂と堀乗綱の経塚︵文政11年︶などが建つ。これらは次倉組大庄初代の堀乗綱を顕彰するため、息子の堀善左衛門が建てたもの。2代目大庄屋については﹁次倉二代堀善左衛門行状﹂や﹁農家百人撰﹂などの古文書が竹田市歴史文化館・由学館に所蔵される。墓所近くの﹁蔵内﹂には﹁堀屋敷跡﹂が残されている(この土地はすでに他家に渡っている)。
(三)^ 堀磨の後妻・ミツエは山口県徳山市出身。堀の祖母となることから、徳山毛利家の微臣であったミツエの祖父・野村陣兵衛が、幕末に京都・男山の戦いに従軍した家歴から、堀は維新史に興味を持つに至った。また、ミツエは実母・京を幼くして亡くしたことで、継母ヒサを迎えた、このヒサの祖父・青山清の家系が山口県萩市に鎮座する萩で最も古い椿八幡宮青山大宮司家であり、青山清が長州藩の国学者として招魂祭を主導して維新後に上京、靖国神社の初代宮司になっていた。
(四)^ 徳山からの移住の背景を﹁幼くして実母を結核で亡くした祖母は、山口県の徳山から移住した祖父久野道右衛門と祖母タケ夫妻を頼り、彼らの息子で一〇歳上の勘助と兄妹のように育てられていた。その時期は、国際友好記念図書館が旧大連図書館のレプリカの形で平成六年一二月に竣工して以来、整備が進んだ門司港レトロの時代と重なる﹂と記している。また徳山毛利家の微臣であった京の両親︵久野道右衛門とタケ夫妻︶と、彼らの長男で京にとっては弟になる久野勘助が、明治28年に竣工まもない門司港に移住。米穀商としては﹁門司の三羽ガラス﹂の一人と称された。
(五)^ ﹃郷土の100人﹄という本には、﹁出光が商工会議所会頭、久野が副会頭、中野が市会議長。この三人が組んだら世の中に不可能の文字はなかった﹂と書いてある。昭和9年にはじまる﹁門司みなと祭﹂や、同年に開設された﹁松ヶ枝ゴフル倶楽部﹂も、久野勘助ら﹁門司の三羽ガラス﹂が手がけていた︵最初のカヤブキ屋根のクラブハウスは出光佐三のアイデアといわれている︶。また、はじめは小倉側に造られる予定だった関門海底鉄道トンネルの出口も、﹁門司の三羽ガラス﹂の政治力で門司側に変更させたていた。久野勘助は米穀商﹁久野商会﹂を経営する傍ら、門司市の市会議員や福岡県会議員を歴任。
(六)^ 昭和19年にはタイ米輸入の関係から門司駐在タイ国名誉領事になり、戦時中は久野商会がタイ米を輸入。また、商工会議所の会頭をしながら、松井石根が顧問を務める大政翼賛会興亜総本部の門司支部長を歴任。軍と密接な関係にあったが、戦後はGHQのパン食による民主化政策に従い、昭和22︵1947︶年に福岡県パン工業組合︵組合員数144名︶の理事長、つづいて昭和25︵1950︶年に福岡県パン協同組合連合会の理事長に就任している。これに伴い久野商会でもパン製造をはじめ、地元で人気の﹁久野パン﹂が生まれた。加えて、会社経営とは別に、門司文化会館︵現、門司市民会館︶の建設を後押し、昭和29年には門司市文化団体連合会の会長として、﹃門司文化﹄を創刊。久野勘助が昭和8年に建てた家が、現在は地元美術家・松浦孝︵門司港美術工芸研究所所長︶のアトリエとなり、毎年春と秋の2回、美術展会場として地域の憩いの場となっている。こうした久野勘助の足跡を軸とする﹁門司の三羽ガラス﹂の事績と関門地域の近代史を取材、発掘した前著﹃関門の近代﹄が出版されて2ヶ月後の2017年4月に、門司港と下関市が﹁関門〝ノスタルジック〟海峡﹂として日本遺産に登録された。
出典[編集]
- ^ “堀 雅昭”. 図書出版 弦書房. 2022年6月1日閲覧。
- ^ “村野藤吾と俵田明―革新の建築家と実業家”. 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア. 2022年6月1日閲覧。