大沢昌助
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大沢 昌助︵おおさわ しょうすけ、1903年9月24日 - 1997年5月15日[1]︶は、昭和・平成の日本の洋画家。戦後二科会再建時の創立会員。80歳を過ぎてソフトライン、水平線シリーズなど簡潔で色彩豊かな独自の抽象絵画を確立した。東京都庁に壁画がある。
略歴
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●1903年︵明治36年︶9月24日、東京三田綱町に大沢三之助、みよ子の三人兄弟の二男として生まれる。
三之助は建築家辰野金吾の教えをうけ、後に東京美術学校図案科第二部︵建築科︶主任教授となる。昌助の兄と弟は建築家になった。三之助の妹︵いと子︶は福沢諭吉の長男一太郎に嫁いだ。
●1923年︵大正12年︶︵20歳︶4月、東京美術学校︵現・東京芸術大学︶西洋画科に入学。長原孝太郎、小林万吾にデッサンを学び、三年次に藤島武二教室に入る。一級上に猪熊弦一郎、山口長男、荻須高徳、岡田謙三、牛島憲之、小磯良平、一級下に吉井淳二、久保守らがいた。
●1928年︵昭和3年︶︵25歳︶ 東京美術学校西洋画科を首席で卒業。
●1932年︵昭和7年︶︵29歳︶ 世田谷区玉川奥沢町2-666にアトリエを建て、転居。この年、国立音楽学校の一期生でピアニストの北村季美子と結婚する。︵季美子の父北村季春は長野県歌﹁信濃の国﹂の作曲者︶
●1933年︵昭和8年︶︵30歳︶ 大沢昌助油絵個展︵日動画廊︶開催、福沢一郎から励ましをうける。
●1939年︵昭和14年︶︵36歳︶ この年から児童雑誌﹃コドモノクニ﹄に童画を掲載。
●1942年︵昭和17年︶︵39歳︶ 二科賞受賞。
●1943年︵昭和18年︶︵40歳︶ 二科会会員に推挙される。
●1945年︵昭和20年︶︵42歳︶4月頃、強制疎開を受け、福沢方に転居。8月、父、三之助死去。この年、二科会再建に会員として参加する。
●1946年︵昭和21年︶︵43歳︶ 武井武雄、初山滋らによる日本童画会の創立に参加。
●1954年︵昭和29年︶︵51歳︶ 多摩美術大学教授となる︵1969年まで︶。
●1961年︵昭和36年︶︵58歳︶ 兜屋画廊で戦後初個展。
●1965年︵昭和40年︶︵62歳︶ 第4回国際形象展で愛知県美術館賞を受賞。多摩美術大学正面玄関にモザイク壁画を制作。第8回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品
●1973年︵昭和48年︶︵70歳︶ 大沢昌助・村井正誠・山口長男展︵夢土画廊︶
●1975年︵昭和50年︶︵72歳︶ 麻生三郎・大沢昌助・柳原義達・山口長男展︵ギャラリーセゾン︶
●1978年︵昭和53年︶︵75歳︶ 大沢昌助・堀文子・建畠覚造展︵神奈川県民ギャラリー︶開催。
●1981年︵昭和56年︶︵78歳︶ 大沢昌助の世界展︵池田二十世紀美術館︶開催
●1982年︵昭和57年︶︵79歳︶ 二科会を退会。
●1984年︵昭和59年︶︵81歳︶ 大沢昌助個展︵銀座アートセンターホール︶開催、﹁隠喩︵赤︶﹂﹁隠喩︵青︶﹂
●1991年︵平成3年︶︵88歳︶8月、大沢昌助展︵銀座、和光ホール︶開催。9月、変身と変貌 大沢昌助展︵練馬区立美術館︶開催。東京都新都庁舎都議会本会議場前ロビーの大理石に壁面デザイン。
●1995年︵平成7年︶︵92歳︶ 第4回中村彝賞受賞。
●1997年︵平成9年︶5月15日午前9時、急性心筋梗塞のため自宅で死去。享年93。9月、追悼 大沢昌助展︵練馬区立美術館︶。
参考文献
[編集]- 『変身と変貌-大沢昌助展』図録(練馬区立美術館、1991年)
- 『大沢昌助と父三之助展』図録(練馬区立美術館、2010年)
脚注
[編集]- ^ 東京新聞:国立競技場の壁画11点 一転、保存の可能性 2015年4月17日
外部リンク
[編集]- 大沢昌助の世界
- 大沢昌助スタッフ (@osawakantoku) - X(旧Twitter)