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大道寺 盛昌︵だいどうじ もりまさ︶は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。
明応4年︵1495年︶、後北条氏︵伊勢氏︶の家臣・大道寺重時︵発専︶の子として誕生。
重時は、北条早雲︵伊勢宗瑞︶と共に駿河国へ同行した御由緒六家の一人。大道寺政繁の父とも祖父、あるいは曽祖父ともいわれているが、重時から政繁までは諸説あり、定かではない。そもそも早雲と一緒に駿河へ下向したのが盛昌である、とする異説もある。
盛昌は、主君・早雲︵盛時︶の甥︵厳密には従兄弟の子︶にあたり、内政手腕に長けていたことから重用されたという。名前の﹁盛﹂の字も盛時から一字を与えられたものとされる[1]。盛時︵早雲︶亡き後は続いて北条氏綱に仕え、この間の業績として、大永6年︵1526年︶に里見義豊との鶴岡八幡宮の戦いで社殿が焼失した鶴岡八幡宮の再建のため造営総奉行に任じられ、笠原信為とともに再建事業にあたったことが挙げられる。また、同じく携わった北条為昌︵北条氏綱の次男︶の烏帽子親を務めて、﹁昌﹂の一字を与えている。為昌が玉縄城主に就任すると後見役となり、これに関連して鎌倉の代官を務めた。佐藤博信によれば、盛昌は本来は鎌倉郡を含めた相模国東部地域の代官であり、若年である北条為昌の玉縄城主就任に伴ってその後見となり、それに関連して鎌倉代官としての役目を果たすようになったと推定している[2]。
主君が氏綱から氏康に交代した後も、河越夜戦で扇谷上杉朝定を相手に奮闘して戦功を挙げ、戦後はこの河越城の城代を務めている。史料上は天文19年︵1550年︶閏5月に鎌倉浄智寺に寺領を寄進した時が終見。
某年7月12日に62歳で死去と伝えられている。跡を嫡男の周勝︵重興︶が継いだ。
(一)^ こちらより。
(二)^ 佐藤博信﹁北条為昌と北条綱成﹂﹃日本歴史﹄435号、吉川弘文館、1986年。 /所収:佐藤博信﹃中世東国の足利・北条氏の研究﹄岩田書院、2006年。