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福井県吉田郡岡保村︵現・福井市︶出身。旧制福井中学︵現・福井県立藤島高等学校︶を卒業後、旧制静岡高校、東京大学法学部政治学科へと進学した。1948年、商工省︵のちの通産省︶に入省。入省同期に、矢野俊比古︵通産事務次官、のち参議院議員︶、金森久雄︵日本経済研究センター理事長︶、岸田文武、熊谷善二︵特許庁長官︶、生田豊朗、黒田四郎︵名古屋通産局長︶など。
1960年代の重化学工業化を提言した通産ビジョンに引き続いて、大臣官房企画室長のとき﹁1970年代の通商産業政策﹂を提言し、﹁知識集約型産業﹂構造を定着させた。これに労働者福祉基準と環境基準を加え、この頃までの通産省は明確な国家戦略を打ち出していた。
外務省シドニー総領事館領事、国際経済部長を経て、通商産業審議官︵1974年6月18日-︶、基礎産業局長︵1976年7月27日-︶、資源エネルギー庁長官︵1978年6月20日-︶となり、当時大きな社会問題であった石油危機への対応策に専念し、成果を上げた。
通商畑での貿易交渉の経験の豊富さを買われ、54歳の時に再び事務次官に次ぐ通商産業審議官︵1979年8月29日 - 1981年6月26日︶となり、日米自動車交渉では対米輸出の自主規制枠を導入した。56歳で退官。
その後は国際経済交流財団会長、1984年8月臨時教育審議会第一部長、1987年7月電通総研設立に伴い初代所長︵92年から社長に変更︶を務めた。64歳の時に福井市名誉市民に選ばれた。1994年8月30日、死去。68歳没。
丸山眞男門下。天谷は著書﹃日本町人国家論﹄の中で、日本を名誉や美意識なく、金もうけに徹した町人国家に例え、国際社会で信頼を得るに足るノーブルな体質に変わらねばならないと唱えた。
松下政経塾出身の岡田邦彦は﹁歴史的な文脈の中で、日本の産業政策を考え、自ら国際的な説得工作ができ、国民にもそれを端的に説明ができるスーパーマンだった﹂と天谷を評した[3]。
- 「日本町人国家論」 1983年 第4回石橋湛山賞
- 「日本株式会社 残された選択」
- 「坂の上の雲と坂の下の沼」
- ^ “福井市名誉市民・市民栄誉賞”. 福井市. 2022年8月11日閲覧。
- ^ 「霞が関人物録 福井県=藤島、武生、高志の県立3校の卒業生が活躍」医薬経済 1413号 (2012年02月01日発売)
- ^ 福井県立藤島高等学校"藤高偉人伝〜福井中学〜"(2010年11月21日閲覧。)