学生運動
(学生闘争から転送)
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学生運動︵がくせいうんどう︶は、学生が行う社会運動を指す名称。主に学生による社会的・政治的な運動を指すが、広義では文化運動も含める。
本項では文化運動も含めた広義の学生運動について解説する。
概要[編集]
学生運動の起源は、中世ドイツにおける大学自治権要求運動である。中国の五四運動のように近現代においても社会変革の大きな勢力の一つとなった。1960年代末に中華人民共和国、フランス、アメリカ合衆国、ドイツ、イタリア、日本などで世界的な発展を見せた︵詳細はスチューデント・パワーを参照︶。日本[編集]
日本の最初の学生運動は、大正デモクラシーの時期であった。1925年の制定まで普通選挙法が無かったため、1920年(大正9年)1月に結成された全国普選連合会には政党関係者、労働団体、学生団体、ジャーナリストなど60以上の各種団体が幅広く参加し、納税要件撤廃と選挙権を求める普選運動は盛り上がりを見せた[1]。
「日本共産党第6回全国協議会」も参照
暴力革命路線を信奉・実行していた極左的な人々は、日本共産党のテロ行為が世論の反発を食らって、全候補落選という結果を受けた指導部が1955年の日本共産党第6回全国協議会で武装闘争路線を自己批判・転換したことへの不信・不満を募らせた。方針転換した日本共産党の支持から離脱したことで、日本で日本共産党の旧来の暴力革命路線を継続する﹁新左翼﹂と呼ばれるグループが誕生した。過激派・極左暴力集団とも呼ばれるようになる彼らは日本共産党の暴力革命唯一論・武装闘争路線転換を批判し、継続実行した。1955年以前に掲げていた暴力革命路線と反代々木︵反日本共産党︶を旗印にする﹁日本の新左翼﹂を誕生させた日本共産党は、51年綱領時代の混乱や武装闘争路線は﹁一部の指導層の独断によって行われたものであり、党中央組織とは関係がない﹂と主張している[2]。
1960年の安保闘争、1968年 - 1970年の全共闘運動・大学紛争には、日本社会党や日本共産党派・新左翼らによって国会周辺でのみ盛り上がりを見せ、国民世論全体や各選挙では自民党の圧勝に終わった︵第29回衆議院議員総選挙、 第32回衆議院議員総選挙︶。全共闘や過激派とよばれる新左翼派による暴力革命路線は続き、100名以上の殺害等に一般世論は引いてきていた。当時は全共闘運動自体が勢いを失っていた中で、1972年あさま山荘事件でリンチである総括など左翼の内ゲバの残虐性も世間に広くしられたことで新規参入も皆無になり、学生運動は完全に衰退した。2020年代時点でも学生運動は下火の状態が続いている[3][4]。
上野千鶴子は﹁過激な人たちの方が勇ましくて格好良く見えて、全体がそっちに引っ張られていく﹂と運動は必ず過激化すると語っている。上野は、最初はおとなしいデモだったのが、路上を埋め尽くすデモになり、﹁これが気持ちいいんだわ﹂と学生運動家目線の心情を明かしている。次に完全に交通ストップするジグザグ・デモになるとし、﹁これがまた気持ちいいんだ。﹂と語っている[5]。
安保闘争期には学籍を持たないのにその大学の在校生になりすまして大学内に入り込む﹁天ぷら学生﹂が発生した[6]。
学生運動と女性差別[編集]
女子の大学進学率が低い時代だったこともあり、﹁学生運動をしてる女子学生﹂はきわめて少なかった。そのため、女性は目立っていた[5]。安保世代の女性学生活動家である上野千鶴子や田中美津が最も傷ついたのは、﹁同志だと思っている男性たちからメス扱い︵性差別︶される﹂っていうことだった。欧米でも同じように、初期のウーマンリブの活動家たちは、同士の男性活動家に失望した元女性活動家たちであった[5][7]。戦後も男性活動家は、﹁天皇制解体﹂とか﹁家族帝国主義粉砕﹂って叫びながら戦前の﹁︵日本︶共産党、家に帰れば天皇制﹂っていう時代から何も変わらず、家父長的な一般男性と同じふるまいをしていた。共に闘うタイプの女は恋人にせず、都合のいい﹁死地に赴く男を柱の影でじっと袖をくわえて見送り、待つ女﹂を恋人選ぶダブルスタンダードを見せていた。そして、旧来の貞操観念を大事にする男女関係に反発し、性に積極的な女性学生運動家︵ウーマンリブ的な女性学生運動家︶たちを﹁公衆便所﹂って呼んでいた。上野は、リブの女性たちは、男女の性的関係で自由にふるまえばふるまうほど、そこを学生運動男に﹁やらせてくれる女﹂としてつけ込まれる結果になってしまっていたと語っている。彼女は﹁同志の女につけこみながら、影で笑い者にしてた﹂と男性活動家らの有様を告発している。上野にインタビューした漫画家田房永子もフェミニストや共産党員に育てられた人によると、親は外では立派なことを言うけど、家庭は崩壊していたことを聞いたと明かしている[7]。男性学生運動家への反発から産まれた﹁リブの女﹂も﹁ヤ○マン﹂とは言えずに自分から﹁魔女﹂って名乗っており、当時田中美津は﹁魔女コンサート﹂をやっていた[7]。 学生運動をしていた男女の性事情は、上野千鶴子によると上村一夫の﹃同棲時代﹄という漫画や、かぐや姫の﹁神田川﹂なんてフォークソングが大流行していたため、同棲率が高かった。しかし、女性学生運動家の中には妊娠、中絶を繰り返す者も多かった。﹁学生運動に参加するような女性﹂も男女平等思想を持っておらず、﹁避妊してほしい﹂とさえ、学生運動男性へ言えなかった[8]。 学生運動家の男女は旧来のジェンダー意識を抱えたまま運動参加していたため、男女平等に反する男女の役割分担や女性学生運動家への扱いを当然だとしていた。 学生運動参加女性はバリケード内でオニギリを握るなどの後方支援、ゲバ棒で闘うのは男たちとなっていた[8]。モテるのは横で男と闘うタイプの女性学生運動家ではなく、学生運動男が逮捕されて拘置所に入った際に差し入れや、着替え持っていったりする﹁救対の天使﹂と呼ばれるタイプの女性学生運動家であった[7]。上野はバリケード内で屈辱感を抱きながら、他の女性学生運動家らと大量のおにぎりを握らされ、﹁形が悪いのは上野が握ったおにぎりだ﹂などと揶揄されていた。男性学生運動家らの女性差別へのルサンチマン︵恨み︶からフェミニズムの道に進むキッカケになったと語っている[8]。大学闘争に参加していた女性学生運動家だった米津知子もバリケードの中でノーメイクでラフな格好で男と一緒に闘っていたタイプであったが、男性活動家たちの彼女になるのはいつも化粧と身ぎれいにした女性であった。米津はこの扱いの差がウーマンリブに参加したきっかけとなったと語っている[7]。学生運動のリーダー男性は学生運動参加女性からモテまくった。女性学生運動家は男性活動家に選ばれるのが当然という風潮があり、救対やおにぎり作りなど﹁後方支援﹂が役目になっていた。そのため、女性学生運動家は男の子と同じようにメットを被って前線に出たいと主張したり、した途端に男性運動家から揶揄される扱いになっていた[8][5]。40年ぶりの学生運動であるSEALDsのときには労働組合等の左翼おじさんが若い女性学生運動家らに突っかかる、セクハラ、メーリングリストで延々仲間内で延々と女性学生運動家らの言動の是非を議論しているなどが告発されている[5]。学生運動を描いた作品[編集]
※日本を題材にした作品は日本の学生運動を参照。小説[編集]
- ジェームズ・クネン『いちご白書』
- ベルナルド・ベルトルッチ『ドリーマーズ』
- ハンス・ワインガルトナー『ベルリン、僕らの革命』
- マヌエル・ウエルガ『サルバドールの朝』
脚注[編集]
(一)^ “3-9 普選運動 | 史料にみる日本の近代”. www.ndl.go.jp. 2023年1月16日閲覧。
(二)^ “野党共闘の鍵をにぎる日本共産党 その歴史を振り返る”. ハフポスト (2016年2月3日). 2023年1月16日閲覧。
(三)^ 日本放送協会. “あさま山荘事件50年 ~事件は今に何を伝えるのか~|NHK”. NHK NEWS WEB. 2023年1月16日閲覧。
(四)^ “トークライブを編み出した元左翼の波瀾曲折”. 東洋経済オンライン (2017年8月17日). 2023年1月16日閲覧。
(五)^ abcdehttps://www.ohtabooks.com/at-plus/entry/12674/
(六)^ “怪しいクルマ﹁天ぷらナンバー﹂の正体は? 日本代表料理が﹁偽物﹂表現として用いられる背景とは︵くるまのニュース︶”. Yahoo!ニュース. 2023年1月16日閲覧。
(七)^ abcdehttps://president.jp/articles/-/40982
(八)^ abcdhttps://fujinkoron.jp/articles/-/7485