安東省菴
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安東省菴 | |
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時代 | 江戸時代初期から中期 |
生誕 | 元和8年1月18日(1622年2月28日) |
死没 | 元禄14年10月20日(1701年11月19日) |
改名 | 親善→守正→守約 |
別名 |
通称:四郎→助四郎、号:省菴、恥斎 字:魯黙、子牧 |
墓所 | 浄華寺 |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 立花宗茂→忠茂→鑑虎 |
藩 | 筑後国柳河藩 |
氏族 | 豊後安東氏 |
父母 | 父:安東親清 |
子 | 侗菴 |
安東 省菴︵あんどう せいあん︶は日本の儒学者。六組︵大組︶石高200石の蔵米知行取の柳河藩立花氏家臣にして藩儒である。なお、所属組は立花壱岐組、後に立花九郎兵衛組。子に安東侗菴。立花道雪の重臣安東家忠の曾孫にあたる。
経歴[編集]
元和8年︵1622年︶に石高500石の柳川藩藩士で重臣である安東親清の次男として生まれた。次男であったが、聡明で好学心が高く、器量があるので、寛永11年4月2日︵1634年4月29日︶に立花宗茂より分家の内意書を与えられる。
立花忠茂の時代には江戸に呼び寄せられて近侍する。寛永14年︵1637年︶に島原の乱が起こり、柳河藩も江戸幕府より乱鎮圧を命じられると、病身ながら従軍。﹃有馬一揆旧記﹄の﹁御殿様御渡海御供御備立﹂に﹁拾参人 同︵馬壱疋︶ 安東助四郎﹂とある。
加えて、同書の﹁十二月廿五日三之丸御乗被成候刻戦死並手負之覚﹂において立花壱岐組に﹁同︵手負︶ 安東助四郎﹂とあり、12月20日の原城三の丸攻撃に参加して負傷したことが分かる。
京都において松永尺五の下で学問を修めている間、日本に亡命してきた明の学者、江川入徳︵中国名‥陳入徳︶から、朱舜水の情報を得た。1660年、安東は長崎に赴き、朱と会談し、師弟の交わりを持った。この時、安東は日本に留住できるよう長崎奉行に働きかけ、6年間もの間少ない自分の俸禄︵200石だが実質は80石︶の半分を朱舜水のために贈ったという[1]。また、寛文3年︵1663年︶に長崎で火事が起こり、朱の家が焼けたときも家を新築し、焼け残った書物や日用品をそこに収めて無事を祝った。
元禄14年︵1701年︶に柳河で没する。79歳であった。明治44年︵1911年︶に従四位を追贈される[2]。
人物と学問[編集]
●幅広い学問に通じ、学派に偏らない本来の精神を追求し、生活は清貧に甘んじ、実学を信念とし、論語のような生活態度をしたという。
●伊藤東涯から“西海の巨儒”と呼ばれた。
●当初は朱子学一辺倒であったが、朱舜水に諭され、陽明学なども学んだ。これは、彼の人格育成に大いに役に立った。気に対する概念も学んだという[3]。