尉古真
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経歴
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道武帝が賀蘭部にいたとき、賀染干︵献明賀皇后の弟︶が反乱を計画して、侯引乙突らを行宮に派遣した。古真がこの計画を知って、道武帝に密告したため、反乱は不発に終わった。賀染干は古真が計画を漏らしたものと疑い、古真を捕らえると、車軸に頭を押しつけて拷問し、片眼を傷つけたが、古真が白状しなかったため、釈放した。388年︵登国3年︶、庫莫奚に対する遠征に従軍した。389年︵登国4年︶、道武帝が紇突隣部を討つと、古真はこれに従って功績を挙げた。390年︵登国5年︶、賀蘭部の救援におもむいて、劉衛辰の子の劉直力鞮を撃破した。395年︵登国10年︶、参合陂の戦いに参戦した。後燕に対する征戦で活躍して、功績により束州侯の爵位を受け、建節将軍の号を加えられた。明元帝の初年、鴻飛将軍となった。411年︵永興3年︶、5000の兵を率いて、大洛城に駐屯した。413年︵永興5年︶、明元帝が西巡すると、古真は奚斤らとともに前軍を率いて越勒部を討ち、これを撃破した。418年︵泰常3年︶、定州刺史に任じられた。
子の尉億万が後を嗣いだ。