奚
奚︵けい、拼音‥Xī︶は、4世紀から10世紀頃までモンゴル高原東部から中国東北部にあるラオハムレン︵老哈河、遼河の源流︶流域とシラムレン︵遼河の支流︶流域に存在していた遊牧民族。初めは庫莫奚︵こまくけい、Qu(o)mâġ-ġay、Kùmò xī︶と呼ばれていた[1]。﹃ホショ・ツァイダム碑文﹄︵オルホン碑文︶では、[2]︵Ttbi‥Tatabï、タタビ︶と記されている。
5世紀頃の東夷諸国と庫莫奚の位置。
6世紀頃の東夷諸国と奚の位置。
7世紀後半の東夷諸国と唐の羈縻︵きび︶支配。
8世紀、9世紀の東夷諸国。
五代十国時代。
唐末、陰涼川に住んでいた奚族は、また阿薈部・啜禾部・粤質部・奴皆部・墨訖支部の5部に分かれた。後に琵琶川に移り住む。
時に契丹の耶律阿保機が強盛となると、室韋・奚・霫はこれに服属した。奚人は常に契丹の守界上となったが、その苛虐に苦しんだ。そこで奚王の去諸は契丹に叛き、別部を率いて西の嬀州へ遷り、北山に依って狩猟生活を始めた。やがてその一族は千帳にもなり、東西に分かれた。また、去諸の一族は農業もできるので、辺境の荒地を耕して農作物を植え、秋には収穫をした。
去諸が死ぬと、子の掃剌が立った。後唐の荘宗は劉守光を破ると、掃剌に李姓と紹威という名を賜った。
李紹威は契丹の娘で舎利逐不魯の姉を娶って妻としたため、後に逐不魯が叛亡して西奚に亡命した時はかくまってやった。
李紹威が亡くなると、子の李拽剌が立つ。同光︵923年 - 926年︶以後、李紹威父子は数回遣使を送って朝貢した。
契丹の耶律徳光が後晋を滅ぼすと、李拽剌は契丹に服属した。
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