小島範一郎
小島 範一郎︵こじま はんいちろう、1852年︵嘉永5年︶ - 1910年︵明治43年︶︶は、明治期の司法官僚、実業家。正七位。
経歴[編集]
広島藩士小島岩之進の長男。身体が虚弱であったため武術を修めたのち、広島藩学問所︵現‥修道中学校・高等学校︶にて学び[1]、のちに学問所句読師も務めた。当時15歳で元服するところを13歳で元服している。医学門所を経て1873年︵明治6年︶慶應義塾に学ぶ。1873年︵明治6年︶広島県庁に入る。1877年︵明治10年︶司法省出仕を命ぜられ広島裁判所山口支庁で民事を担当。1880年︵明治13年︶興芸西社を興す。1886年︵明治19年︶広島県御調世羅郡長に就任。1891年︵明治24年︶兵庫県川辺郡長に就任し3年間務め病気のため辞職。1900年︵明治33年︶芸備立憲政友会幹事。その後実業界に転じ、大日本軌道取締役など数社の重役、広島市名誉参事会員、旧制修道中学校理事などを歴任した。脚注[編集]
- ^ 修道中学校編「修道中学校史」1931年 28頁
参考文献[編集]
- 三田商業研究会 編『慶應義塾出身名流列伝699-700頁』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、699-700頁 。(近代デジタルライブラリー)