屋主忍男武雄心命
屋主忍男武雄心命 | |
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時代 | 古代 |
別名 | 屋主忍男武猪心命、武猪心命、 |
主君 | 景行天皇 |
父母 | 父:彦太忍信命、母:不明 |
妻 | 影媛 |
子 | 武内宿禰、甘美内宿禰 |
屋主忍男武雄心命︵やぬしおしおたけおごころのみこと、生没年不詳︶は、﹃日本書紀﹄等に伝わる古代日本の人物。父は彦太忍信命であるが母に関する記載はない。
﹃日本書紀﹄では屋主忍男武雄心命のほか、屋主忍男武猪心命︵やぬしおしおたけいごころのみこと︶、武猪心命、﹃新撰姓氏録﹄では建猪心命、屋主忍雄武猪心命、﹃紀氏家牒﹄逸文では屋主忍武雄心命、また屋主忍雄命、武男心命等とも表記される。﹃古事記﹄では孝元天皇皇子﹁少名日子建猪心命﹂が該当すると見られるが、子孫の記載は無い。
﹃日本書紀﹄によって、第8代孝元天皇皇孫で、武内宿禰の父とされる人物である[1]。
系譜[編集]
﹃日本書紀﹄では父祖に関する明記はないが、孝元天皇7年2月2日条において第8代孝元天皇皇子の彦太忍信命︵ひこふつおしのまことのみこと︶が武内宿禰の祖父とされているため、彦太忍信命が屋主忍男武雄心命の父にあたる。
子に関して、同書景行天皇3年2月1日条では、莵道彦︵紀直遠祖︶の娘の影媛︵かげひめ︶との間に武内宿禰があるとする[1]。また応神天皇9年4月条では、武内宿禰の弟として甘美内宿禰の名も見える。
一方﹃古事記﹄では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命︵彦太忍信命︶の子が建内宿禰︵武内宿禰︶になるとしており、少名日子建猪心命は系譜から外れている[1]。
また﹃紀氏系図﹄では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする系譜を記載する[1]。
記録[編集]
﹃日本書紀﹄景行天皇3年2月1日条によると、天皇は紀伊に行幸して神祇祭祀を行おうとしたが、占いで不吉と出たため、代わりに武雄心命が遣わされた。武雄心命が阿備柏原︵あびのかしわばら‥現・和歌山市相坂・松原か︶にて留まり住むこと9年、その間に影媛との間に武内宿禰を儲けたという[1]。 ﹃政事要略﹄所引﹁高橋氏文﹂によると、膳氏祖の磐鹿六雁命が死去した際に、景行天皇によって藤河別命・武男心命︵武雄心命︶が宣命使として派遣されたという[1]。 ﹃住吉大社神代記﹄によれば、垂仁天皇の癸酉年2月1日に武雄心命は住吉大神の願に従って遣わされ、山を寄せて幣とし、阿備柏原社で斎祀し、9年のうちに難破道龍住山︵比定地未詳︶を申し賜ったという[1]。後裔氏族[編集]
﹃新撰姓氏録﹄には、次の氏族が後裔として記載されている。- 右京皇別 紀朝臣 - 石川朝臣同氏。屋主忍雄建猪心命の後。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 「屋主忍男武雄心命」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588。