山城正忠
山城 正忠︵やましろ せいちゅう、1884年︵明治17年︶11月1日 - 1949年︵昭和24年︶11月22日︶は、明治から昭和にかけて活動した歌人、小説家。唐名は胡 之忠。
生涯[編集]
沖縄県那覇市出身。上京して医学を学ぶかたわら、﹁新詩社﹂に入会。与謝野鉄幹・晶子夫妻に師事し歌人を目指す。石川啄木と交流があり日記にたびたび登場するが、啄木には﹁肥つて達磨の様である﹂と評され、酔態ばかり書かれている。帰郷後、歯科医を開業する一方、﹃明星﹄・﹃スバル﹄・﹃冬柏﹄に短歌を投稿、﹃ホトトギス﹄に小説を発表した。沖縄に近代文学を伝える役割を果たした。 代表的歌集に﹃紙銭を焼く﹄、小説に﹃九年母﹄がある。﹃九年母﹄では日清戦争時代の﹁頑固党﹂と﹁開化党﹂の争いの中で、日本化されてゆく沖縄社会の状況を描いた。また戯曲に﹃冠船﹄がある[1][2][3][4]。書家としても知られた。出典[編集]
- ^ 琉球新報
- ^ 20世紀日本人名事典
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』編集工房東洋企画