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明星︵みょうじょう︶は、1900年︵明治33年︶4月から1908年︵明治41年︶11月まで刊行された、詩歌を中心とする月刊文芸誌である[1]。1908年︵明治41年︶11月の第100号で第1次明星は廃刊となった。
誌風はロマン主義的であり、高踏的・唯美的傾向が強く、西洋文学の紹介にも熱心だった。
与謝野鉄幹
明治33年4月、同人結社東京新詩社の機関誌として、与謝野鉄幹が主宰となり創刊。表紙に﹁主筆・与謝野鉄幹﹂と大きく印刷したタブロイド判16ページの雑誌であった。1ページは4段組み、1段22字詰めの41行。定価は6銭で、麹町区上六番町四十五番地が発行所となる。発行人はまだ入籍していない妻・林滝野の名になっていた[2]。
●平出修 ; 弁護士。経理に詳しく、経済面で﹃明星﹄を支える[3]。鉄幹の依頼により、大逆事件被告団の弁護士の一人となる[4]。
●第8号に裸体画︵挿絵画家・一條成美によるフランス絵画の模写︶2枚が掲載されたことで、﹁風俗壊乱﹂として内務省により発禁処分を受ける。一條はこの責任を取って東京新詩社を退社した。
●1904年︵明治37年︶、与謝野晶子﹁君死にたまふことなかれ﹂が掲載され論議を呼ぶ。
明星派[編集]
明星へ寄稿した若手歌人・詩人による革新的な一派。鉄幹・晶子夫妻をはじめとし、北原白秋・石川啄木・木下杢太郎・吉井勇・山川登美子・中濱絲子・中原綾子らが属した。
1908年11月の︵第1次︶明星廃刊以降、明星が果たした役割は後進とされる﹃スバル﹄へと引き継がれた[5]。
1921年︵大正10年︶11月、鉄幹らにより明星は復刊され、1927年︵昭和2年︶4月までに全48号が刊行された︵第2次︶[1][6]。また、1947年︵昭和22年︶5月から1949年︵昭和24年︶10月にかけて、与謝野光を主宰として再度複刊されている︵第3次︶[1][6]。しかし、最初の第1次明星と比べて、これらには文学的意義は少ないとされる[5]。
(一)^ abc古川清彦, “明星”, 日本大百科全書(ニッポニカ), 小学館, https://archive.is/oDgUO#42%
(二)^ 伊藤整﹃日本文壇史5﹄講談社文芸文庫、1995年、112p頁。
(三)^ 伊藤整﹃日本文壇史17﹄講談社文芸文庫、1997年、56p頁。
(四)^ 伊藤整﹃日本文壇史18﹄講談社文芸文庫、1997年、14p頁。
(五)^ ab“明星”, 百科事典マイペディア, 平凡社, https://archive.is/oDgUO#13.5%
(六)^ ab“明星(みょうじょう)”, 山川 日本史小辞典︵改訂新版︶, 山川出版社, (2016), https://archive.is/pjHEM#selection-345.0-345.10
外部リンク[編集]
●明星︵国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開︶。1947年〜1949年分。﹁目次﹂より各号に遷移。
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