旋頭歌
旋頭歌︵せどうか︶は、奈良時代における和歌の一形式。﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄﹃万葉集﹄などに作品が見られる。
五七七を2回繰り返した6句からなり、上三句と下三句とで詠み手の立場がことなる歌が多い。頭句︵第一句︶を再び旋︵めぐ︶らすことから、旋頭歌と呼ばれる。五七七の片歌を2人で唱和または問答したことから発生したと考えられている[1]。
国文学者の久松潜一は﹃上代日本文学の研究﹄において、旋頭歌の本質は問答的に口誦するところにあるとの考えを示し、他の研究者もこれを支持している。一人で詠作する歌体もあるが、これは柿本人麻呂によって創造されたとの説がある[2]。
﹃万葉集﹄には62首の旋頭歌がおさめられ、そのうち35首までが﹁柿本人麻呂歌集﹂からのものである。﹃万葉集﹄以後は急速に衰え、﹃古今和歌集﹄以下の勅撰和歌集ではまれである。
旋頭歌の例[編集]
﹃古事記﹄では伊須氣余理比賣︵いすけよりひめ︶と大久米命︵おほくめのみこと︶との問答として次の歌が収録されている[3]。 ●胡鷰子鶺鴒 千鳥ま鵐 など黥ける利目 ︵一八︶ あめつつ ちどりましとと などさけるとめ ●媛女に 直に遇はむと 我が黥ける利目 ︵一九︶ おとめに ただにあはむと わがさけるとめ ﹃万葉集﹄からも例を挙げる[4]。次は旋頭歌本来の問答・唱和形式のものである。 ●住吉︵すみのえ︶の 小田︵おだ︶を刈らす子 奴︵やっこ︶かもなき 奴あれど 妹︵いも︶がみために 私田︵わたくしだ︶刈る ︵一二七五︶ ︵現代語訳︶住吉の小田を刈っておいでの若い衆、奴はいないのかね。何の何の、奴はいるんだが、いとしい女子のおためにと、私田を刈っているのさ。 次の例は問答歌ではないが、第三句と第六句とが共通であり、うたわれたものと考えられている。 ●霰︵あられ︶降り 遠江︵とほつあふみ︶の 吾跡川︵あとかわ︶柳 刈れども またも生ふという 吾跡川︵あとかわ︶柳 ︵一二九三︶ ︵現代語訳︶遠江の吾跡川[5]の柳よ。刈っても刈っても、また生い茂るという吾跡川の柳よ。 ︵参考文献 稲岡耕二 ﹁人麻呂歌集旋頭歌の文学的意義﹂ 久松潜一 ﹃上代日本文学の研究﹄からの引用部より︶ 次の例は詠み人知らずの歌で神体山の三輪山の杉原を女性に、その祝の神官を女性の親に隠喩したとされる旋頭歌である。- み幣(ぬさ)取り三輪の祝(はふり)が斎(いわ)ふ杉原 薪(たきぎ)伐(こ)りほとほとしくに手斧(ておの)取らえぬ (一四〇三)
- 幣(ぬさ)を手に取り三輪の祝が大切に守る杉原よ。その薪を伐る人は危うく手斧を奪い取られてしまいそう。
関連項目[編集]
脚注[編集]
(一)^ 伊藤博 ﹃万葉集釋注 四﹄ 補注 718頁 旋頭歌︵巻第七 雑部 就所発思︹一二六七︺への注 二一五頁︶
(二)^ 稲岡耕二 ﹁人麻呂歌集旋頭歌の文学的意義﹂
(三)^ 用字、訓み下し、番号は倉野憲司校注 ﹃古事記﹄による。中津巻、神武天皇、2皇后選定、87-89頁。
(四)^ 用字、訓み下し、番号︵国歌大観番号︶、現代語訳は伊藤博 ﹃万葉集釋注 四﹄による。230-231頁、261-262頁。
(五)^ 静岡県浜名区︵旧細江町︶吾跡川