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旧別子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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800m1300m500m3.2km19165225

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嶺南・序盤[編集]

  • 円通寺跡:別子銅山専用の墓所で正式には雲谷山三業院円通寺小足谷出張所という。しかし、銅山が当地を撤退して3年後の1919年(大正8年)に火災に遭い機能が失われたため白尾(現・南光院)に移された。[2]
  • 醸造所跡:小足谷醸造所で1870年明治3年)からヰゲタ政宗を最高期は年間100KL製造していた。
  • 接待館跡:1901年(明治34年)から接待館として営業。その上に歴代採鉱課長の傭人社宅がある。
  • 山神社跡
  • 小学校跡:最盛期の1899年(明治32年)3月には生徒数298名教員7名であった。
  • 劇場跡:土木課の倉庫。1889年(明治22年)建造で350坪あり、毎年5月には劇場として開放され歌舞伎が催行された。
  • 住友病院跡:ダイアモンド水広場を過ぎ橋を渡り対岸に渡って少し下るとある。
  • 高橋精錬所跡と沈殿工場跡:明治20年代になって洋式熔鉱炉が作られた。
  • ダイヤモンド水: 1951年(昭和26年)掘削。予定まであと82mで水が吹き出しジャミング事故が起きて掘削不能になりダイヤモンドを散りばめた先端部が今も孔底に残り、こう呼ばれるようになった。この場所に2015年(平成27年)バイオ・トイレが整備され休憩所となっている(凍結の恐れによりトイレは、12月1日より3月15日の冬期使用禁止)。

嶺北・上部[編集]

  • 上部鉄道跡:1893年(明治26年)8月27日完成の日本初の山岳鉄道で、標高850m石ケ山丈(いしがさんじょう)と標高1100m角石原(かどいしはら)の間5532mを蒸気機関車が走っていた。しかし、第三通洞による輸送ルートが整備されたため1911年(明治44年)10月7日廃止された。現在はこの角石原から先は通行禁止になっている。なお、角石原は東平より約2時間弱上る、または、銅山越より北へ約30分弱下った地点である。
  • 第一通洞北口:標高1100m。明治19年に初めて南側と結ばれ南口の代々坑に貫通した。全長1020m。銅山峰ヒュッテ広場の東端にある。
  • 銅山峰ヒュッテ:明治26年に上部鉄道の発着駅・角石原停車場が設けられ、そのすぐ西には選鉱場と焼鉱場があった。廃止後の駅舎跡は銅山峰ヒュッテとなり、多くの登山者に利用されている。平成16年山守の伊藤玉男が亡くなった後を妻みどりが継いで維持している。
一泊二食6000円(要予約 09027829340 11時から13時の間に連絡すること)

筏津坑[編集]

明治11年(1878)に開坑され、途中1901年から1916年の間休止はあったものの、昭和48年(1973)3月31日に当坑の終掘で全ての別子銅山の歴史が終わった。その後、別子保養センター筏津山荘が営業され、筏津坑も観光できていたが、平成24年3月31日で山荘は廃業され、しばらくは中に入れたが照明用の電気も切れて真っ暗なままであり閉鎖された。 照明設備や補強工事がされ、令和元年8月より無料で観光できるようになった。遊歩道を約100mほど奥に行くと2番坑(火薬庫)跡があり、その手前の岩壁はドリルの試し掘りをした穴が無数にある。山荘の跡地は東赤石山の登山者用の無料大駐車場となっている。

所在地:愛媛県新居浜市別子山筏津北緯33度50分51.79秒 東経133度23分4.49秒