服部広太郎
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服部 廣太郎 | |
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生誕 |
1875年5月1日 日本、東京都、千代田区 |
死没 |
1965年9月30日(90歳没) 日本、東京都 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 植物学 |
研究機関 | 徳川生物学研究所・生物学御研究所 |
出身校 | 東京帝国大学 |
主な業績 | 皇居における植物学研究 |
プロジェクト:人物伝 |
服部廣太郎︵はっとり ひろたろう、1875年︿明治8年﹀5月1日 - 1965年︿昭和40年﹀9月30日︶は、日本の生物学者。東京帝国大学講師。菌類を専門とした。昭和天皇の生物学の師として知られ、1925年の生物学御研究所の開設に携わった。徳川義親とも関係が深く、1923年から徳川生物学研究所所長を務める。服部学園︵御茶の水美術学院・御茶の水美術専門学校・アートジム︶の創立者でもある。父、服部親臣は尾張徳川家所縁のある尾張藩士だと言われている。
経歴[編集]
・1911年に徳川義親が同大学理科大学生物学科に学士入学した際には、講師となっていた服部が口利きをしたとされる[1]。 ・1914年、宮内庁御学問所御用掛に任ぜられ、東宮︵のちの昭和天皇︶に生物学を講じる[2]。 ・同年、御用掛に任ぜられた東洋史学者の白鳥庫吉とは、互いの子の服部親行と白鳥美千代を通じて姻戚関係にあった。 ・1923年、徳川生物学研究所の所長に就任[3]。その後、昭和天皇による生物学研究所の開設を取仕切り、1925年開設された生物学御研究所の主任に就任[3]。人物[編集]
服部廣太郎の人物を知る資料として、下記の記事が残っている。 ・多数の人が常に無心で見て、何の興味をも感じない一片の木の葉、其木の葉の一生は如何なるものなのかを研究すれば、ここにも造化の妙機が窺われるのである。﹁造形の妙機﹂︵家庭必読通俗科学 婦人叢書‥第1編 1908年︵明治31.6︶P.88︶ ・ “吹く風の色のちぐさにみえつるは 秋の木の葉の散ればなりけり”︵古今集︶凡ての葉の一生は斯くの如きもので、委細に玩味すれば、一片の木の葉にも、無限の意味があるやうに思はれる。﹁無限の意味﹂︵家庭必読通俗科学 婦人叢書‥第1編 1908年︵明治41︶P.96︶ ・私は初めからこう信じていた。自然科学というものの道筋は、事実に即してそれから理論に入るのが本道である。そのためにはどうしても現物に接触しなくてはならん。現物に接触するには、われわれの方の部門でいえば動植物を採取しなければならん。そして自分で観察しなければならん。﹁事実に即して﹂︵科学朝日 1948年︵昭和23︶生物学御研究室の天皇︶著作[編集]
単著[編集]
●﹃細菌﹄岩波書店︿岩波講座生物学9植物学4﹀、1930年10月。 NCID BN08694350。全国書誌番号:46078580。 ●﹃細菌﹄︵増訂版︶岩波書店︿岩波講座生物学9植物学4﹀、1934年2月。 NCID BN11166871。全国書誌番号:69022007。編集[編集]
●﹃那須ヶ嶽のつつじ﹄服部広太郎、1935年10月。 NCID BA83814851。 ●﹃那須産変形菌類図説﹄服部広太郎、1935年11月。 NCID BA32890910。全国書誌番号:46067250。 ●生物学御研究所 編﹃那須産変形菌類図説﹄︵増訂版︶三省堂、1964年10月。 NCID BN04310264。全国書誌番号:65008165。栄典[編集]
●1940年︵昭和15年︶8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[4]脚注[編集]
参考文献[編集]
- 科学朝日 著、科学朝日 編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年。ISBN 4022595213。
- 小田部, 雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年。ISBN 4250880192。