末弘厳石
末弘 厳石︵すえひろ げんせき/いかし、1858年1月15日︵安政4年12月1日[1][2]︶ - 1922年︵大正11年︶3月10日[3]︶は、明治から大正時代の司法官。大審院刑事部長。旧姓は糸永[1][2][3]。名は千年[3]。
経歴[編集]
豊前宇佐郡出身[3]。士族・糸永千足の長男として生まれ、1867年︵慶応3年5月︶末弘備後の養子となり、1869年︵明治2年8月︶家督を相続する[2]。1876年︵明治9年︶7月、司法省法学校生徒となり1884年︵明治17年︶卒業し判事補となる[2]。高知、盛岡、栃木、宇都宮各始審裁判所勤務を経て、1892年︵明治25年︶東京地方裁判所部長判事となり[2]、東京控訴院判事を経て、1900年︵明治33年︶大審院判事に進んだ[1]。のち大審院刑事部長となった[3]。親族[編集]
- 岳父:奥並継(妻ヨシ父、志士、国学者)[2]
- 長男:末弘厳太郎(法学者)[4]
- 娘婿:長寿吉(長女ハツヱ夫、西洋史学者)[2]
- 娘婿:池田克(四女須賀夫、司法官)[4]
- 養女:糸永クマセ(国学者・糸永茂昌の姪、陸軍步兵少佐・富沢定一の妻)[2]