士族
概要[編集]
1869年︵明治2年︶の版籍奉還の直後の明治2年旧暦6月25日︵西暦1869年8月2日︶、明治政府は旧武士階級︵藩士兵卒︶のうち、一門から平士までを士族と呼ぶことを定めた︵明治2年行政官達第五七六、五七七、五七八号︶。士族の選定基準は藩によって異なるが、加賀藩の場合では、直参身分であった足軽層の一部や上級士族の家臣である陪臣層も士族とされていた[8]一方で、中間などの武家奉公人は卒族に編入された[9]。政府方針としては旧来の武士身分の統一を図るものであったが、多くの藩では独自に上中下などの等級をつけ、旧来の家格制度を維持しようとした[10]。「 | 一門以下平士ニ至ル迄総テ士族ト可称事 | 」 |
「 | 各府県貫属卒ノ内従前番代ノ節抱替ノ称ヲ以テ其倅等ヘ禄高ヲ給与シ自然世襲ノ姿ニ相成居候分ハ自今士族ニ可被 仰付候条調書ヲ以大蔵省ヘ可伺出尤家禄ノ儀ハ従前ノ通可相心得事 但新規一代限抱ノ輩ハ平民ニ復籍セシメ給禄ハ是迄ノ通可遣事 |
」 |
調査期日 | 士族人口 | 卒族人口 | 総人口[14] | 士族/総人口(%) | 卒族/総人口(%) |
---|---|---|---|---|---|
明治3年頃[15] | 1,094,890 | 830,707 | 30,088,335 | 3.64 | 2.76 |
明治5年旧暦1月29日 | 1,282,167 | 659,074 | 33,110,796 | 3.87 | 1.99 |
明治6年1月1日 | 1,548,568 | 343,881 | 33,300,644 | 4.65 | 1.03 |
明治7年1月1日 | 1,883,265 | 7,246 | 33,625,646 | 5.60 | 0.02 |
明治8年1月1日 | 1,896,371 | 4,306 | 33,997,415 | 5.58 | 0.01 |
明治9年1月1日 | 1,894,784 | 34,338,367 | 5.52 |
士族の特権の喪失[編集]
江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄︵家禄︶を受け、名字帯刀や殺人権︵切捨御免︶などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年︵明治2年︶の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。 士族の特権は段階的に剥奪され、1873年︵明治6年︶には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年︵明治9年︶には廃刀令が実施された。秩禄制度は、1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年に金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。また、名字の名乗りは1870年に平民にも許可され、1875年には義務化された︵国民皆姓︶。この他にも1871年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。一時、士族に華族と別立ての爵位を授与しようという議論が岩倉具視らにより模索されていた。1876年︵明治9年︶の木戸孝允らの案では、華族に公爵、伯爵、士族に士爵の爵位を授けることが構想されていたが、木戸の死と士族の反乱などが重なり、沙汰やみとなった。 1884年︵明治17年︶の華族令により勲功者も華族となる道が開かれ、維新の功労者、功績を上げた政治家や軍人、事業に成功した資産家などが華族に列するようになった。この勲功華族の制度の誕生で平民や士族に華族への道が開かれ、一部が華族になった[18]。しかし勲功華族に昇格できた士族はごく一部にとどまり、大半は士族のままだった。士族は平民と比して特権は一切なく、単に戸籍における族称のみだけの存在である[19][20]。1914年戸籍法改正により身分登記制も廃止されたとする事典の記載[21]があるが、1914年3月31日に公布され、戸籍法︵大正3年3月31日法律第26号︶は、それまでの戸籍法︵明治31年6月21日法律第12号︶が、戸籍簿と身分登記簿のニ本立てであったものを、戸籍簿に一本化したものであり、それまでの身分登記の事項は戸籍の事項となったのである。従って、制度としての身分登記制の廃止は、そのとおりであるが、戸籍記載事項としては、戸籍法︵大正3年3月31日法律第26号︶第18条で戸籍の記載事項で華族又は士族の場合は族称を記載し、第154条及び第156条で士族になった場合又は士族でなくなった場合の手続を規定しており、1914年に変更されてはいない。士族の商法[編集]
四民平等へと移行される過程で、士族身分は平民と何ら変わらない存在となっていき、生計を立てるため農業や商業を始めた。塚原渋柿園によると、商業で最も多かったのは、汁粉屋、団子屋、炭薪屋、古道具屋などであったという。特に屋敷の長屋などで先祖代々の家財道具を並べた安直な古道具屋は供給に対して需要が少なく、横柄で堅苦しい客応対もあり、庶民の憐憫と嘲笑を買った。 このように、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗する例は多く、﹁士族の商法﹂、﹁殿様商売﹂と批難され、性急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえともなった。落語のネタにもなり、三遊亭圓生の﹃士族の商法﹄、八代目桂文楽の﹃素人鰻﹄は特に有名である。また、歌舞伎では﹃水天宮利生深川﹄、﹃霜夜鐘十字辻筮﹄が散切物の代表作となっている。 こうした状況に対し政府による救済措置として、困窮した士族を救済する士族授産などが行われたが、やはり失敗する例が多かった。西郷隆盛が唱えた征韓論にも士族の救済という側面があったが、西郷が政争に敗れ実現しなかった。特権を奪われた士族の一部は新政府の政策に不平を唱えて︵不平士族︶各地で反乱︵士族反乱︶を起こした。しかし、不平士族の反乱はすぐに鎮圧され、多くは没落して故郷へ帰るなどした。 このことも風刺の対象となり士族の商法とかけて﹁有平糖﹂︵不平党︶、﹁お芋の頑固り不平おこし﹂︵薩摩士族︶などと皮肉られた[22]。なお、不平士族には政治運動﹁士族民権﹂を展開するものもあり、後に豪農と結び付き自由民権運動へと移行した。 ただし、士族の中でも知識や人脈、既得権益を生かして実業家に転向する者も見られ[23]、例として、日産コンツェルンの創始者鮎川義介、日本初の百貨店︵三越百貨店︶創立者日比翁助などが挙げられる。また、士族銀行や殿様銀行と呼ばれる士族の資産を活かした銀行︵国立銀行︶が設立され、日本の殖産興業政策を活性化させた。武芸や学問に通じた者は、軍人、警察官、教師など官吏に転向したり、かつての藩主と藩士の縁故関係から県・郡役所に採用された例も多い。酪農のように、元来の農民がこれを忌避したがために、士族がこれを手がけて成功した例もある。琉球藩・沖縄県の士族[編集]
明治政府により琉球王国が琉球藩とされた後、王子を華族の構成員とし、位階を持つ筑登之以上の階級のものが士族とされた[24]。筑登之の階級は基本的に無禄であったが、王朝時代に私有地を獲得していたため、禄を受けていた上級士族よりかえって豊かになることもあった[25]。士族の実態[編集]
士族の人口構成[編集]
明治6年︵1873年︶以降年々、国民の総人口及び士族人口も増加傾向をたどったが、総人口に占める士族の割合は、士卒合併がほぼ完了した明治7年︵1874年︶の5.6%からほぼ単純減少を示している。平民の自然増に加え、士族の世帯から長男以外の男子が分籍して平民に移行することも原因として挙げられる[26]。 以下に明治9年︵1876年︶以降の士族人口の変遷をまとめる。調査期日 | 士族人口 | 総人口[14] | 士族人口 増加指数[28] |
総人口 増加指数[28] |
士族人口 割合(%) |
---|---|---|---|---|---|
明治9年1月1日 | 1,894,784 | 34,338,367 | 100.00 | 100.00 | 5.52 |
明治12年1月1日[29] | 1,833,357 | 35,768,547 | 96.76 | 104.16 | 5.13 |
明治13年1月1日[29] | 1,838,486 | 35,929,023 | 97.03 | 104.63 | 5.12 |
明治14年1月1日 | 1,933,888 | 36,358,955 | 102.06 | 105.88 | 5.32 |
明治15年1月1日 | 1,931,824 | 36,700,079 | 101.95 | 106.88 | 5.26 |
明治16年1月1日 | 1,930,112 | 37,017,262 | 101.86 | 107.80 | 5.21 |
明治17年1月1日 | 1,945,638 | 37,451,727 | 102.68 | 109.07 | 5.20 |
明治18年1月1日 | 1,938,204 | 37,868,949 | 102.29 | 110.28 | 5.12 |
明治19年1月1日 | 1,948,283 | 38,151,217 | 102.82 | 111.10 | 5.11 |
明治19年12月31日 | 1,940,271 | 38,507,177 | 102.40 | 112.14 | 5.04 |
明治20年12月31日 | 1,954,669 | 39,069,691 | 103.16 | 113.78 | 5.00 |
明治21年12月31日 | 1,976,480 | 39,607,234 | 104.31 | 115.34 | 4.99 |
明治22年12月31日 | 1,993,637 | 40,072,020 | 105.22 | 116.70 | 4.98 |
明治23年12月31日 | 2,008,641 | 40,453,461 | 106.01 | 117.81 | 4.97 |
明治24年12月31日 | 2,009,396 | 40,718,677 | 106.05 | 118.58 | 4.93 |
明治25年12月31日 | 2,014,306 | 41,089,940 | 106.31 | 119.66 | 4.90 |
明治26年12月31日 | 2,024,317 | 41,388,313 | 106.84 | 120.53 | 4.89 |
明治27年12月31日 | 2,039,591 | 41,813,215 | 107.64 | 121.77 | 4.88 |
明治28年12月31日 | 2,050,144 | 42,270,620 | 108.20 | 123.10 | 4.85 |
明治29年12月31日 | 2,067,997 | 42,708,264 | 109.14 | 124.37 | 4.84 |
明治30年12月31日 | 2,089,134 | 43,228,863 | 110.26 | 125.89 | 4.83 |
明治31年12月31日 | 2,105,698 | 43,758,415 | 111.13 | 127.43 | 4.81 |
明治36年12月31日 | 2,168,058 | 46,732,138 | 114.42 | 136.09 | 4.64 |
明治41年12月31日 | 2,218,623 | 49,587,531 | 117.09 | 144.41 | 4.47 |
大正2年12月31日 | 2,310,269 | 53,362,189 | 121.93 | 155.40 | 4.33 |
大正7年12月31日 | 2,298,719 | 56,667,328 | 121.32 | 165.03 | 4.06 |
母体としての士族:士族の官職保有率と有位者数[編集]
官員(中央・府県道の文・武官、司法官、監獄官、技術官)総数7万8328人(うち士族5万2032人) |
郡区町村吏 総数9万266人(うち士族1万5524人) |
士族 総戸数 425658戸 |
年∖族籍別構成 | 族籍別構成(人) | 占有率(%) | 人口一万人あたりの輩出率 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
華族 | 士族 | 平民 | 合計 | 華族 | 士族 | 平民 | 士族 | 平民 | |
明治17年(1884年)
19
|
693
683
|
4,832
6,053
|
692
1,059
|
6,217
7,795
|
11.1
8.8
|
77.7
77.7
|
11.1
13.6
|
24.8
31.2
|
0.2
0.3
|
士族の教育水準・職業選択:輩出母体としての士族[編集]
華族 | 士族 | 平民 | 総数 | |
---|---|---|---|---|
明治19年(一高中)
明治20年(一高中)
|
0.2%
0.3
|
60.9%
60.0
|
38.9%
39.7
|
1,188
1,048
|
華族 | 士族 | 平民 | 合計 | |
---|---|---|---|---|
一高*
二高
|
1.1%
0.3
|
27.1%
25.0
|
71.8%
74.7
|
273
739
|
一連の教育制度が整い、族籍に関わらず進学の道が開かれる一方で、官吏登用の面でも国民に広く任用の機会が開かれた。明治20年(1887年)、文官試験試補及見習規則が整い、能力試験に基づく官吏任用が始まったが、士族の子弟の任用は低くても2割から3割を占めた(以下の表 文官高等試験(行政科)合格者族籍別構成参照)。地方吏員の任用も、戸長以外の区郡長や書記などの公職にも見られ、士族が転向を含めて各職業の母体として存在していたことがわかる。
年∖高文合格者構成 | 族籍別構成(人) | 占有率(%) | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
華族 | 士族 | 平民 | 合計 | 士族(%) | 平民(%) | |
明治27年(1894年)
28
|
0
0
|
2
16
|
4
21
|
6
37
|
33.3
43.2
|
66.7
56.8
|
郡区長 | 書記 | 戸長 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
士族 | 平民 | 士族 | 平民 | 士族 | 平民 | 士族 | 平民 | 全体(華族含む) | |
明治15年(1882年)
16
|
380
369
|
151
160
|
4,289
4,449
|
2,331
2,436
|
3,833
3,303
|
29,924
25,831
|
8,502
8,121
|
32,406
28,427
|
40,913
36,548
|
族籍別構成(人) | 占有率(%) | 人口一万人あたりの輩出率 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
華族 | 士族 | 平民 | 合計 | 士族(%) | 平民(%) | 士族 | 平民 | ||
地方税支弁の学校
|
校長
教員
|
-
-
|
61
962
|
17
260
|
78
1,222
|
78.2
78.7
|
21.8
21.3
| ||
小計 (a) | - | 1,275 | 347 | 1,622 | 78.6 | 21.4 | |||
協議費支弁の学校
|
校長
教員
|
-
2
|
259
29,507
|
167
41,440
|
426
70,949
|
60.8
41.6
|
39.2
58.4
| ||
小計 (b) | 2 | 29,778 | 41,607 | 71,387 | 41.7 | 58.3 | |||
計 (a+b) | 2 | 31,053 | 41,954 | 73,009 | 42.5 | 57.5 | 160.7 | 12.1 | |
中学校・師範学校の給仕・小使 (c)
小学校等の給仕・小使 (d) |
-
- |
157
857 |
396
11,368 |
553
12,225 |
28.4
7.0 |
71.6
93.0 | |||
計 (c+d) | - | 1,014 | 11,764 | 12,778 | 7.9 | 92.1 |