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本庄長英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  

稿

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  稿[1]19




永禄4年(1561年3月、上杉謙信後北条氏の居城である小田原城へ攻め寄せた折、本庄左衛門佐は忍城主成田氏に所属し、
同(本庄)左衛門三良は、足利にいる長尾氏に所属して、小田原城攻めに参加した」


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[2]稿16

 




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  1. ^ 『新編武蔵風土記稿』に長英は「居館を東本庄に構え、上杉氏の家臣となった」とあるが、東本庄館の館主は信明であり(本庄市発行『ビジュアルヒストリー 本庄歴史缶』1997年を初めとする市発行の諸々書物)、築造も戦国期以前とされ、戦国期に成田氏の家臣となった長英と信明が混同されている。
  2. ^ 『児玉町史 中世資料編』にある諸々の系図からは長英は確認できない

参考文献[編集]

  • 『児玉町史 中世資料編』 - 『武蔵七党系図』を初めとして、諸々の系図を載せている
  • 『本庄市史』
  • 『本庄市立歴史民俗資料館 紀要』
  • 『本庄人物事典』 2003年