出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| この記事で示されている出典について、該当する記述が 具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月) |
村澤 高包︵むらさわ たかかね、1749年︵寛延2年︶ - 1837年︵天保8年︶11月8日︶は、江戸時代後期の篤志家、和算家。通称は文右衛門︵久右衛門とも︶。
信濃国更級郡今里村の和算家、篤志家・村澤布高の長男として生まれる。村澤家は豪農で、江戸時代初期には今里に在ったという。幼い頃から祖先と父・布高を手本として質素倹約に励み、貯蓄を始めた。それは凶作に苦しむ農民を救う為であった。また、貧しさに苦しむ人々を助ける為に医学を修め、医薬を貯蔵し、報酬を求めず治療に当たり、布高から数学を学んで門人となり、小県郡別所観音への算額奉納などもしている。
1783年︵天明3年︶、天明の大飢饉で村人が租税困難となった際、蔵の米で村の公租を代納しつつ、困窮に喘ぐ人々に蓄えてあった銭を与える救貧活動を行った。1789年︵寛政元年︶に祖父が亡くなると、凶作に備えるべく、金百両、米百石をお上に寄付して祖父の遺志を果たした。高井郡小沼村では、1804年︵文化元年︶より洪水被害に苦しんでおり、それを救う為、紐に通した銭三万貫を出し、そして1808年︵文化5年︶には、凶作で宿駅の負担に喘ぐ水内郡牟礼村に金500両を出した。
1808年︵文化5年︶、長年に渡る慈善活動の数々と、藩政への貢献によって苗字帯刀を許され、郡名である更級を名乗る事を許された。
1810年︵文化7年︶に隠居。晩年は快徹︵徹翁とも︶と号し、医術と薬剤によって人々を救い続けつつ、近隣郷の子弟達の算術の先生となった。
1837年︵天保8年︶没。
参考文献[編集]
●長野県更級郡役所﹃更級郡誌﹄︵明治文献、1973︶
●信濃教育会更級部会、信濃教育会埴科部会編﹃更級郡埴科郡人名辞書﹄︵象山社、1978︶
●平凡社﹃日本人名大辞典6﹄︵平凡社、1938初版、1979覆刻︶
●赤羽篤外編﹃長野県歴史人物大事典﹄郷土出版社、1989年。
関連項目[編集]
●村澤氏