東条良平
東条 良平︵東條、とうじょう りょうへい、1860年11月22日︵万延元年10月10日[1][注釈 1]︶- 1911年︵明治44年︶5月8日[1][2][3][4]︶は、明治期の医師、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。
経歴[編集]
上総国市原郡山木村[1]︵千葉県[2]市原郡八幡町[3][4]山木[1]、市原町を経て現市原市[1]山木︶で、代々医を業とした東条家[5][6]で東条養仙の長男として生まれる[1][6]。父は高野長英門下[1]。嶺田士徳︵楓湖︶から英漢の学を学んだ[1][2][6]。1874年︵明治7年︶に上京し、華岡真節に医学を学び[1][2][6]、1877年︵明治10年︶8月、医術開業試験に合格し、医術内外科開業免状が交付され医師を開業した[1]。千葉市原郡医会会頭、千葉医学会副会頭なども務めた[5][6]。 1887年︵明治20年︶4月、八幡町会議員に選出され1889年︵明治22年︶7月まで在任[1][2]。同月、千葉県会議員補欠選挙に当選し1902年︵明治35年︶8月まで在任し[1]、この間、常置委員、参事会員を務め[1]、1897年︵明治30年︶11月から1902年8月まで県会議長を務めた[1][2]。自由党、憲政党、立憲政友会に所属し[1][5]、憲政党千葉県支部幹事、政友会千葉県支部幹事を務め[5][6]、1888年︵明治21年︶市原倶楽部を結成してその中心となり、政友会の党勢拡大に尽力した[1]。1897年︵明治30年︶から検疫官、地方森林会議員、地方衛生委員、小学校教科図書審査委員なども務めた[1]。 1902年︵明治35年︶8月、第7回衆議院議員総選挙︵千葉県郡部、立憲政友会︶で初当選[1][6][7]。以後、第10回総選挙まで2回再選され、衆議院議員に通算3期在任した[1][2][3][4]。この間、政友会協議員などを務めた[4]。議員在任中の1911年5月に死去した[8]。国政選挙歴[編集]
- 第7回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1902年8月、立憲政友会)当選[1][7]
- 第8回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1903年3月、立憲政友会)当選[1][7]
- 第10回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1908年5月、立憲政友会)当選[1][9]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 衆議院『衆議院議員名簿』〈第十七回帝国議会衆議院公報第1号附録〉、1902年、8頁では10月8日。
出典[編集]
(一)^ abcdefghijklmnopqrstuv﹃千葉県議会史‥議員名鑑﹄574頁。
(二)^ abcdefg﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄425-426頁。
(三)^ abc﹃総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回﹄303頁。
(四)^ abcd﹃立憲政友会功労者追遠録﹄101-102頁。
(五)^ abcd﹃新撰衆議院議員列伝﹄56頁。
(六)^ abcdefg﹃大日本人物誌﹄と之部43頁。
(七)^ abc﹃衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回﹄10-11頁。
(八)^ ﹃官報﹄第8364号、明治44年5月12日。
(九)^ ﹃衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回﹄51頁。
参考文献[編集]
- 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 青野権右衛門編『立憲政友会功労者追遠録』安久社、1933年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『千葉県議会史:議員名鑑』千葉県議会、1985年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。